吉田拓郎と岡本おさみとの闘争から生まれた「望みを捨てろ」~〈吐きすて〉の歌の系譜⑧

岡本おさみとの協同によるソング・ライティングについて、吉田拓郎は「あの頃いつも俺は不愉快だった(笑)」と述べていた。 ここでいう「あの頃」とは、岡本とのコンビを組んでつくった「旅の宿」がヒットした1972年から、森進一に書き下ろした「襟裳岬」が日本レコード大賞を受賞することになった1974年頃までのことを指している。 拓郎が不愉快だったというのは自分が歌で書きたいと思っている詩を、いつも岡本が先に書いしまっていると思っていたからだという。 ある時期になると、そろそろ次のLP作ろうって話がレコード会社からくるわけ。 で、じゃあやるか、ということになると、今度は自分で詩を書くか、それとも岡本おさみに頼むかってことを必ずディレクターがきいてくるわけよ。 俺は「自分で書くよ」って一応いつも言ってたんだけど、書こうと身構えて考えてみると、でも、このテーマは岡本ちゃんがすでに書いているしな、なんて問題にぶちあたる。 表現の仕方は違っても、テーマというかルーツが同じだというものを、先へ先へと書かれてしまっている。 そうすると、もうダメ、書けなくなっちゃう。 そういうことが『元気です』『伽草子』『ライブ73』とずっと続いてきたともいえるね。 いつも俺の書きたかったテーマを半歩先きに書かれてしまっていたという感じだ。 だからときには自分で作った詩だったかなと、錯覚することも度々あったらしい。 本人が自が書いたと錯覚するくらいだったから、リスナーたちの間でもかなりの多くの人が、拓郎の作詞・作曲だと思っていた曲があったはずだ。 1973年12月21日にリリースしたアルバム『たくろうLIVE ’7..

パティ・スミス少女時代①〜初めて歌った曲、初めて買ったレコード、そしてリトル・リチャードの衝撃

「カンドレ・マンドレ」から「夢の中へ」と進化した井上陽水のソングライティング

1969年にアンドレ・カンドレという名前で登場した井上陽水だが、デビュー曲は「カンドレ・マンドレ」というタイトルだった。 発表されたその当時も今も変な芸名だったし、曲のタイトルもかなり変な感じがした。 最近になって本人は「若気の至りっていうのは怖いよね(笑)」と話しているが、そのどこか普通ではないネーミングには、井上陽水という表現者が持っている美意識と恥じらいが潜んでいる。 芸名に美意識と恥じらいが潜んでいるといえば、同じ時代の忌野清志郎が挙げられるだろう。 そんな二人が井上陽水のベストセラー・アルバム『氷の世界』では、「帰れない二人」と「待ちぼうけ」を一緒にソングライティングしていた。 1982年に行われたこの二人の対談のなかで、「ネーミングでアーティストの面白さっていうのが、わかるんですか?」という司会者の質問に、忌野清志郎がはっきりこう応えている。 わかる。 陽水なんか、最初アンドレ・カンドレだったでしょ。 で、出したレコードが「カンドレ・マンドレ」だったし、この人は気が合うだろうなって思ったもの。 (『昭和の歌麿と昭和の写楽 戯言対談』) 忌野清志郎は二人が出会った頃の印象について、井上陽水がビートルズをコピーしながら熱心に研究していたとも語っている。 うーん……あの、ビートルズの曲、やってたんですよ、アンドレ・カンドレって名前で……やっぱり、そのネーミングがすごいと。 それから、ビートルズのコピーがうまいなって、思った、ウン。 すごい、ビートルズの曲、研究してたし、研究熱心なヤツだと思いました、ウン。 (『昭和の歌麿と昭和の写楽 戯言対談』) 1967年から6..

パティ・スミス少女時代①〜初めて歌った曲、初めて買ったレコード、そしてリトル・リチャードの衝撃

ダウン・バイ・ロー~トム・ウェイツの歌がもとで撮られた“悲しくて美しい世界”

トム・ウェイツは、僕にとって歌を書く人間という以上の存在だ。彼は詩人だ。詩人は僕の真の英雄だ。ルイジアナにロケハンに行った時も彼の歌が耳に残っていて、撮影するショットのリズムのインスピレーションを受けた。僕のアイデアは彼の歌に影響されていた。 前作『ストレンジャー・ザン・パラダイス』で世界中のヒップな人々から熱い支持とクールな評価を得た映画作家ジム・ジャームッシュは、次の作品に取り組むにあたってトム・ウェイツ、ジョン・ルーリー、ロベルト・ベニーニという友人でもある3人の俳優の存在を思い浮かべたという。 トム・ウェイツの音楽を心に響かせながら、行ったこともないニューオーリンズの場末やルイジアナの湿地帯を想い、たった2週間で脚本を書き上げた。そして1985年11月~1986年1月にかけての6週間を使って、オールロケで撮影したのが『ダウン・バイ・ロー』(DOWN BY LAW/1986)だ。 この映画のスタイルに名をつけなければならないとしたら、時に悪夢、時にお伽噺である雰囲気を持ち、ストーリー的には従来のジャンルをオープンに受け入れる、「ネオ・ビート・ノワール・コメディ」と呼びたいね。 「ダウン・バイ・ロー」とは、もともとは1920年代に南部から北部に移った黒人たちが、街に馴染んだ時に「自分でやっていける」という意味で使ったストリート・トーク。その後、70年代後半までは黒人社会と刑務所の中だけで口にされ、「アウトサイダーだから信用できる」という意味になった。 また、ミュージシャンにも受け継がれて「気が合う仲間」「頼りになる仲間」といった感覚のアウトロー・スラングとしても使われ..

パティ・スミス少女時代①〜初めて歌った曲、初めて買ったレコード、そしてリトル・リチャードの衝撃

なぜポール・シムノンはステージの上でベースを叩き壊したのか?

その1枚が撮影されたのは1979年の9月21日、ニューヨーク・パラディウムで開かれたコンサートでのことだった。 この年の夏、ロンドンで新作アルバム『ロンドン・コーリング』のレコーディングを終えたクラッシュは、2回目となるアメリカ・ツアーをスタートさせていた。 2ヶ月近くに渡ってアメリカ各地を回るという強行スケジュールだったが、ジョー・ストラマーの溢れんばかりのバイタリティに導かれるようにして、バンドはゆく先々で快進撃を続けていった。 この頃にはアメリカでもクラッシュへの関心は高まっていて、ボブ・ディランをはじめとして多くのミュージシャンがコンサートに足を運んでいる。 ニューヨークでのコンサートは9月20日からだった。 会場となったパラディウムは1927年に建造された映画館で、1976年にコンサートホールとして改修された。 事件が起こったのは2日目のことだった。 バンドは初日よりも調子を上げ、ショウは順調に進んでいた。 しかし最後の曲、「白い暴動」を演奏しているときに突然、ポール・シムノンがベース・ギターを床に叩きつけたのだ。 その衝撃に耐え切れず、ネックの部分が見事に折れてしまった。 当時クラッシュの専属カメラマンをしていた写真家、ペニー・スミスによってまさに叩きつけようという瞬間がフィルムに収められた。 その写真を『ロンドン・コーリング』のジャケットに使おうと提案したのは、ジャケットのデザインを手がけることになったイラストレーターのレイ・ローリーだ。 ところが写真がピンぼけしていることを理由に、ペニーはその提案を拒否した。 失敗したと思っている写真をジャケットに使われること..

パティ・スミス少女時代①〜初めて歌った曲、初めて買ったレコード、そしてリトル・リチャードの衝撃

September〜アース・ウィンド・アンド・ファイアーが放ったダンスナンバーの金字塔

覚えてるかい 9月21日の夜のこと 知らんぷりしてた僕らの気持ちを愛が変えたんだ 雲を追い払うようにね 僕たちの心は高鳴っていた 魂の歌に合わせて 僕たちが踊ったあの夜 星が夜を盗んでいったのを忘れない… バーディヤ 覚えてるかい バーディヤ 9月に踊ったダンスを バーディヤ 雲ひとつない素直な気持ちで 三十数年前…夜な夜なディスコで遊んでいた世代にとって、この「September」は“青春時代の代名詞”とも言える曲だという。 アース・ウィンド・アンド・ファイアー(EW & F)が1978年に発売し、大ヒットさせたダンスナンバーである。 アメリカのビルボード誌では、1979年2月10日に週間ランキング最高位の第8位(R&Bチャート1位)を獲得し、全英チャートでは3位を記録。 作詞作曲のクレジットには、EW & Fのメンバーであるモーリス・ホワイトとアル・マッケイおよびアリー・ウィリスの共作と記されている。 聴き所と言えば…なんと言ってもEW&Fの強力なリズム隊である。 ベースのヴァーダイン・ホワイトがツーフィンガーで弾き出すグルーヴこそが“この曲の要(かなめ)”と言っても過言ではないだろう。 歌詞は「9月21日のことを覚えてる?」と、愛しい相手にたずねる語り出しから始まる。 一般的に9月と言って連想されるのは…少し物憂げな風景や情感。 それまでのポップスやシャンソンでは“恋の終り”と喩えられることの多かった季節である。 ■TAP the POP『四月になれば彼女は〜ポール・サイモンのセンスが光る2分足らずの秀作〜』 http://www.tapthepop.net/iman..

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