ペイネ 愛の世界旅行〜このどうしようもない世界で「本当の愛」を見つけるために旅立つ恋人たちの名作

ハイコントラストの白黒映像。跳ね上がる爆撃の中、手と手を取り合って何度も駆け抜けていく1組のカップル。そして流れ出すエンニオ・モリコーネのテーマ曲──『ペイネ 愛の世界旅行』(Il Giro Del Mondo Degli Innamorati Di Peynet/1974)のあまりにも印象的なオープニングだ。 このアニメーションは、ベトナム戦争や中東危機など世界中で紛争が絶えなかった1970年に企画が立てられ、3年の歳月を経て完成した。物語後半の「戦争反対、恋愛賛成」というシーンが象徴するように、本作は「愛と平和」をテーマにした恋人たちのための映画である。 2016年、世界はその頃と一体何が変わったのだろうか? そう思うと心が傷む。だからこそこの作品が放つ力強いメッセージに、今もう一度心を向けてみる機会だと思う。 恋人たちを描いたのは、レイモン・ペイネ。1908年パリ生まれの世界的なイラストレーターで、フランスだけでなく日本でも1986年に軽井沢に美術館が建てられたので出向いたことのある人も少なくないだろう。1930年に5歳年上の夫人と結婚。夫婦はペイネが描く恋人たちのように仲が良く、彼女が創作に大きな影響を与えたと言われている。1999年に90歳で死去。『ペイネ 愛の世界旅行』はペイネ唯一のアニメーション作品であり、1974年7月に日本で初公開されて、その後リバイバル上映もされた。 物語は、おかっぱ頭に山高帽をかぶったバレンチノと髪をポニーテールにしてミニスカートを履いたバレンチナという恋人たちが、本当の愛を見つけるためにラブパスポートを手に入れるところから始まる(恋人カー..

左胸を泣かせるソウル・バラードの世界〜忌野清志郎/オーティス/サム/ジャッキー

意味不明の歌詞なのに大ヒットした森山加代子の「じんじろげ」は、中村八大による多国籍ポップスの傑作

日本における”変な歌”の歴史において筆頭格、まるで意味不明な歌詞にもかかわらず1961年に大ヒットした「じんじろげ」は、インドが発祥地といわれる原曲をもとにした多国籍ポップスである。 歌い出しの歌詞は「ちんちくりんのつんつるてん まっかっかのおさんどん おみやにがんかけた ないしょにしとこう」というものだ。 それがどうやら日本語らしいとはわかっても、何を意味するのかまではわからなかった。 しかもその先からは、呪文のような感じの奇天烈なフレーズが続いていくので、当時の人にはどこの国の言葉に由来するのかさえわからなかった。 「じんじろげ」 作詞:渡 舟人 作曲・編曲:中村八大 ちんちくりんのつんつるてん まっかっかのおさんどん お宮に願かけた 内緒にしとこう ジンジロゲーヤ ジンジロゲ ドーレドンガラガッタ ホーレツラッパノツーレツ マージョリン マージンガラチョイチョイ ヒッカリコマタキ ワーイワイ それにもかかわらずこの”変な歌”は、何やら怪しげな歌詞とノリの良いサウンドがごきげんだったので、森山加代子のハツラツとした若さと可愛らしさ、そして品のいいヴォーカルの魅力と相まって大ヒットを記録したのである。 ロカビリー出身の森山加代子は18歳のアイドル・シンガーで、イタリアのミーナが歌った「月影のナポリ」を日本語で歌ったデビュー曲がヒットしたことで、カヴァー・ポップスで最も人気があるスターの一人になった。 それが1960年6月のことだった。 「 月影のナポリ(Tintarella di luna)」  ティンタレラディルナ 蒼いお月様  あの人に云って キスして欲しいって ..

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ジョー・ペリー少年時代③〜ローリング・ストーンズやボブ・ディランの洗礼、ついに手にしたエレキギター

「そんなに欲しいなら、自分で働いて買いなさい!」 父親は彼にこう言い放った。 チャック・ベリーに憧れ、ビートルズに刺激を受けた彼の頭の中は、とにかく1日も早くエレキギターを手に入れることだけで一杯だった。 中学校でも成績は落ちていく一方で、父親はそんな彼を憂いでいたという。 「俺は親父が望むような優等生にはなれなかった。エレキギターを欲しがって、親をイライラさせ続ける息子だった。とにかくエレキギターが欲しかったから、金を貯めるためにバイトをする決心をしたんだ。最初は草刈りの仕事だった。退屈な作業に耐えられたのは、楽器屋で目に焼き付けたギブソンのイメージのおかげだった。チャック・ベリーの“Almost Grown”を頭の中で弾きながら、大汗をかいてバイトに励んだよ。」 1964年、14歳になった当時の彼にとって人生最大のイベントと言える映画が公開された。 ビートルズ主演の『ビートルがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』がアメリカでも公開されたのだ。 「映画の丸ごと全部が最高だったよ!反抗的な4人の若者が、金切り声を上げる大勢の女の子に追いかけられながら、ステージからホテルへと逃げ回る。4人のアウトサイダーが、音楽、ユーモア、そして自分たちの思い通りの人生を送るという決意によって結ばれる。これこそ俺が求めているものだった。」 映画館を出た時に、彼の頭に浮かんだことはたった一つ!バンドを結成することだった。 バンドをやるならば、やはりエレキギターを手に入れなければ話にならない。 翌日から彼はアルバイトを増やして、とにかくお金を貯めた。 芝生の植え替え、雪かき、グリーティングカードの..

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ちあきなおみのヴォーカルと服部隆之のアレンジによってよみがえった「黄昏のビギン」

「黄昏のビギン」の作詞者としてクレジットされている永六輔が、「実はあの歌、八大さんがつくったんです、作詞も、作曲も」と意外な発言を口にしたのは2012年のことだった。 雑誌『中央公論』の企画で昭和の歌謡曲について、永さんと対談させていただくことになったときのことだった。 永さんはお会いしてすぐに冒頭に、一気にたたみかけるようにこう仰った後でニッコリ笑った。 僕じゃないんです。でも八大さんが「君にしておくね」って言って。 八大さんとは早稲田大学の先輩後輩の関係でしょ。だからあの人には反対したりできないんです。 何か言われたら、全部「はい」って。 それで八大さんは、自分で作詞・作曲をしたから、あれが一番好きなの。 だから、「いい歌ですね」なんて言われて、いろいろな人が歌っているんですが、そばに行って「これは僕じゃないんです」って言わないと肩身が狭いというか。 (永六輔著「大晩年老いも病いも笑い飛ばす!」中央公論新社) 「黄昏のビギン」は当初、1959年に制定された第1回レコード大賞を受賞した「黒い花びら」に続く、水原弘のセカンド・シングル「黒い落葉」のB面曲として世に出た。 しかしそれほどのヒットにならなかったレコードのB面だったので、当然のように時の流れとともに少しづつ忘れられていった。 ただし、夜の巷で働く人たち水商売系の人や、歌が好きな大人たちの間では、”いい歌”だという声も多かったらしい。 1959年の秋から60年代にかけて、もうはるか遠い昔の話だ。 その後も盛り場の流しがレパートリーにするなどして、東京の繁華街などではかろうじてだが、歌い継がれていたという。 それから..

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バディ・ガイ27歳〜シカゴブルースの黄金期、クラプトンやスティーヴ・ミラーによる貴重な証言

ブルースロックの“成熟期”ともいえる70年代を代表する白人ギタリストの一人に、スティーヴ・ミラーという男がいる。 少年時代をテキサスで過ごした彼は、12歳の時には早くも黒人クラブでギターを弾いていたという筋金入りのギタリストである。 ボズ・スキャッグスらと結成したアーデルズ、ファビュラス・ナイト・トレインを経て、シカゴを音楽の拠点とした彼は、マディ・ウォーターズ、バディ・ガイ等の数々のセッションをこなした。 「俺のような白人の“坊や”が黒人のクラブでブルースを弾いてりゃ大ウケするに決まってるよ。当時、確かバディの年齢は27歳だった。ワンステージ終わるごとにウィスキーを一杯飲まされた。それがバンドのしきたりだったんだ。」 さかのぼること1950年代…ルイジアナ州バトンルージュで、地元のミュージシャン、ビッグ・パパ・ティリーのバンドで活動していたバディ・ガイは、ラジオ局WXOKのDJだったレイ・メドウズの協力を得て、1957年(当時21歳)に2曲のデモ音源をレコーディングする。 翌1958年、彼はさらなる躍進を遂げるべくシカゴへと移住する。 同年、オーティス・ラッシュの紹介でコブラレコードと契約。 傘下のアーティスティックレコードからシングル「Sit And Cry (The Blues)”」でデビューを果たす。 彼はこのセッションではギターを弾いておらず、代わりにオーティス・ラッシュが弾いている。 1959年にコブラレコードが倒産すると、彼は念願だったチェスレコードと契約する。 チェスでの初セッションは彼が24歳を迎えた1960年だった。 その頃のアメリカの音楽シーンといえ..

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キース・リチャーズの胸が張り裂けそうな恋から生まれた「Ruby Tuesday」

ガサ入れや逮捕劇や裁判など、1967年はローリング・ストーンズにとって非常に風当たりが強い年となったが、それはすでにイギリスでは最先端のポップカルチャーやスウィンギング・ロンドンを形成する重要な一部になっていた彼らの影響力を、面白いと思えない権力側が何よりも恐れていた証拠かもしれない。アメリカでも新しい若者の代弁者として、その存在感は渡米の旅に大きくなっていた。 そして、ロックがドラッグカルチャーやヒッピームーヴメントと本格的に結びついて“少しだけ大人”になる直前の1967年の1月中旬、UK12枚目/US14枚目となるニューシングル「Let’s Spend the Night Together」はリリースされた。 「夜を一緒に過ごそう」と歌われるこの曲は、性的なニュアンスを強く漂わせるとの理由で多くのラジオ局では放送禁止になった。その象徴的な出来事として当時アメリカで絶大な視聴率を誇ったショー番組で、「the night」を「some time」に変更して歌うようにホスト役のエド・サリヴァンから訴えられたこともあったほどだ。「私には番組を観ている物凄い数の子供たちがいる。二重の意味があるようなものには我慢できない。それが曲であろうと、ストーンズであろうと」 こんなこともあって、結果的にB面(両A面扱い)の「Ruby Tuesday」が大ヒットする。キース・リチャーズが書いて(ミック・ジャガーではない)、一緒に関わったブライアン・ジョーンズのピアノやリコーダーの演奏がこの上なく美しいこの楽曲の誕生までには、ちょっとしたエピソードがあったことをキースが自伝『ライフ』で書き綴っている..

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アメリカ修行中に恩師の力道山が刺されて死んだという知らせを受け取ったジャイアント馬場の孤独を癒やした歌

ジャイアント馬場が力道山の死を聞かされたのは、1963年の12月の中旬のことだった。 アメリカに長期滞在して2度目の武者修行中だった馬場は、その頃からテロの恐怖というのを身近に肌で感じていたという。 それは実際にケネディ大統領暗殺という、歴史的な大事件が11月22日に起こったことで、アメリカ中が騒然としていたからである。 民主主義の希望とも目されていた若き大統領が亡くなったことによって、「歴史が極端に右から左へ、左から右へと揺れ動いていく気配が肌に伝わって来た」と、馬場は当時の印象を自伝に書き残していた。 そんなケネディ暗殺から1か月も経たないうちに、今度は恩師の力道山が喧嘩で刺されたことが原因で入院中に亡くなってしまったのである。  身体中がスーッと冷たくなっていって、頭のなかは空白ですよ。ちょうど、巨人時代に、五メートル先のものがハッキリみえなくなって、野球生命を断たなくてはならないような大病にかかったとき、警察病院で、「馬場さん、アンマさんになりなさい」って宣告されたときの、あの感じとそっくりでしたね。  先生が死んだということは、オレの身体の半分が死んだような、そんな感じのショックだったんです。  先生はスーパースターですからね。敗戦でガックリきていた日本人の、なんていうかな、復興への大きな力を与えてくれる英雄だったですね。 (ジャイアント馬場『たまにはオレもエンターテイナー』かんき出版) 野球生命を絶たれて球団をクビになった元巨人軍の投手、馬場正平にプロレスラーの可能性を見出してゼロから育ててくれた力道山の死は、馬場にとって生涯の大きな分岐点となっていく。 あらゆり..

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井上陽水と忌野清志郎による「帰れない二人」は”ニューミュージック”の傑作と呼ぶにふさわしい楽曲

井上陽水のシングル盤「心もよう」のB面として、「帰れない二人」は1973年9月21日にシングル盤で発売された。 そしてアナログ・レコードの時代の日本において、最初に100万枚を突破した歴史的なアルバム『氷の世界』にも収録されたことで、広く音楽ファンに親しまれることになった。 ソングライターは24歳の井上陽水と22歳の忌野清志郎、ふたりの才能が正面からぶつかりあったことによって、新しい音楽が誕生した。 「帰れない二人」はそういう意味で、当時のニューミュージックにおける傑作と呼ぶにふさわしい楽曲のひとつだった。 ただしこの曲にはもとになった歌があったと、忌野清志郎が自伝の{GOTTA!」のなかで述べている。 「最近はどんな曲作ってんの?」って陽水が訊くから「指輪をはめたい」をオレが歌ってやったわけ。陽水じっと聴いてた。「いやー、実にいい曲だね」って感心してね。「でも、その歌詞じゃ、だめだよ。売れないと思うよ」っていうんだ。「どんなコード進行なの?」って陽水がねばるからさ。「指輪を~」のコード進行を教えてやったよ。それでふたりでこの曲をいじくりまわしてさ。途中まで「指輪を~」と同じコード進行で、ちょっとメロディー変えてね。最後の部分エンディングを陽水が作った。 なんつうか無理矢理のエンディング、それが陽水の特長なのかもね。 井上陽水がその頃に住んでいたのは東京都三鷹市のアパートで、電話で「一緒に曲を作らないか」と誘われた忌野清志郎は、それに応じてギターを持って出かけていった。 そして井上陽水の部屋でギターを手にした2人によって、「指輪をはめたい」をもとにした「帰れない二人」げ出来..

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1973 ボウイ、シベリア鉄道の旅

♪ スターマンは空で待っている   僕らに会いたがっている   でも、僕らが正気のままでいられるかと   心配してるのさ           ♪ 1973年。 ミュージック・ライフ誌は表紙に山本寛斎がデザインした衣装に身を包んだデヴィッド・ボウイの写真を載せ、「遂にやって来たスターマン デヴィッド・ボウイ日本に上陸」というタイトルで特集を組んだ。 上陸、というミュージック・ライフ誌の表現は正しかった。 彼は飛行機で羽田空港に降り立ったのではなく、オロセイ号という豪華客船で横浜港の大桟橋に上陸したからだ。 スターマンという星から降ってきた男の苦手なものが飛行機だという話はどこか奇妙な感じがしたが、逆に、雨の横浜港に忽然と姿を現したボウイは、とてもミステリアスに映った。 そして雨に煙る中、赤と紺のチェックのジャケットに赤いスラックスのボウイは、モノクロームの画像の中、ひとり色が塗られた男のように見えた。 日本公演を終えたボウイは、再び、船へ乗るため、横浜港へやってきた。だが、その船の名前には、彼には似合わない文字が並んでいた。 <フェリックス・ジェルジンスキー号> ロシア語でそう書かれた客船は、横浜港から旧ソ連のナホトカ港へ向かった。 ナホトカ港からどういう手段で移動したかは定かではないが、ボウイはその港町からウラジオストックへ向かっている。 「レッドのボトムスにグレーのコート。髪の色も派手だったと言われている」と、歴史学者でありロシア地図協会のセルゲイ・コルニロフ氏は、ロシアNOWに語っている。 ボウイはヨーロッパの中世史とソ連の現代史に興味を持っていた。だからこそ、UPI通信..

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ビギナーズ〜暴動とロマンスと英国モッズが詰まったクールな108分間

「ティーンエイジャー」という概念が誕生したのは1950年代のアメリカだと言われている。それまでは「大人か子供か」の選択肢しかなかった中、親世代への反抗意識を持った若者としてのあり方。そんな特定の年齢層が象徴となって浮かび上がった時、「ティーンエイジャー」は輝き始めた。そして少年少女たちのサウンドトラックは言うまでもなく、同時期に生まれたロックンロールだった。 しかし、50年代後半にはロックンロールは勢いを失ってしまう。エルヴィスは陸軍に徴兵され、ジェリー・リー・ルイスは13歳の従妹と結婚していることが発覚。バティ・ホリーは飛行機事故で亡くなり、チャック・ベリーは14歳の少女とのスキャンダルで告発される。事故に遭遇したリトル・リチャードは伝道師になるために引退し、エディ・コクランは自動車事故で他界、同乗していたジーン・ヴィンセントも重傷。アメリカでのロックンロールとティーンエイジの宴はひとまず終わりを告げた。 映画『ビギナーズ』(Absolute Beginners/1986)は、そんな時代のロンドンの「ティーンエイジャー」の姿を描いた作品。アメリカの影響を受けたイギリスでは、まさにこれから少年少女たちの時代が始まろうとしていた頃。来たるべき60年代のスウィンギング・ロンドンへの出発点だった。原作は1959年に刊行された同名のカルト小説で、著者のコリン・マッキネスは「怒れる若者たち(Angry Young Men)」と呼ばれた作家の一人。 物語は1958年の異常に暑いロンドンの夏、可能性に溢れた若者たちの溜まり場ソーホーが舞台。夢と希望を抱いた仲間たちが集まって情熱的な夜が綴られ..

左胸を泣かせるソウル・バラードの世界〜忌野清志郎/オーティス/サム/ジャッキー

1月に去ったレジェンド③〜フィル・ライノット/グレン・フライほか

★ダウンロード/ストリーミング時代の色彩別アルバムガイド 「TAP the COLOR」連載第316回〜WHITE〜 (12月に亡くなった主なミュージシャン) ロック:カール・パーキンス、フィル・エヴァリー、ソニー・ボノ、アレクシス・コーナー、デヴィッド・ボウイ、フィル・ライノット、モーリス・ギブ(ビー・ジーズ)、ジョン・ウェットン(エイジア)、ポール・カントナー(ジェファーソン・エアプレイン)、テリー・キャス(シカゴ)、ボビー・チャールズ、ニルソン、グレン・フライ、ドロレス・オリオーダン(クランベリーズ) ポップ:パティ・ペイジ、ペギー・リー カントリー/フォーク:ハンク・ウィリアムス、ピート・シーガー、タウンズ・ヴァン・ザント ブルーズ/R&B/ソウル:ハウリン・ウルフ、ジュニア・ウェルズ、ウィリー・ディクソン、ライトニン・ホプキンス、オーティス・クレイ、エイモス・ミルバーン、プロフェッサー・ロングヘア、スリム・ハーポ、ジョニー・オーティス、ジャッキー・ウィルソン、ウィルソン・ピケット、エタ・ジェイムズ、ダニー・ハサウェイ ジャズ:ディジー・ガレスピー、チャールズ・ミンガス、ソニー・クラーク、エロル・ガーナー、ケニー・クラーク、マイケル・ブレッカー その他:マヘリア・ジャクソン、アラン・フリード、フランク・プルゥセル、フランス・ギャル あなたの好きな色は?〜TAP the COLORのバックナンバーはこちらから シン・リジィ『Wild One: The Very Best of Thin Lizzy』(1996) ダブリンに銅像まで建ってしまったアイルランドの英雄、「ザ..

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コーハンが“ミュージカルの原点”を上演した1904年、ビリー・マレイが最初のNo.1ヒット

「TAP the CHART」144回は、1904年(明治37年)を取り上げます。 【1904年のTOP 10 HITS】 ❶Sweet Adeline (You’re the Flower of My Heart) / Haydn Quartet ❷Meet Me in St.Louis,Louis / Billy Murray ❸Bedelia / Haydn Quartet ❹Navajo / Billy Murray ❺Silver Threads Among the Gold / Richard Jose ❻Blue Bell / Harlan & Stanley ❼Blue Bell / Haydn Quartet ❽Bedelia / Billy Murray ❾You’re the Flower of My Heart,Sweet Adeline / Peerless Quartette ❿Alexander / Billy Murray *参考/Joel Whitburn監修『Pop Memories 1900-1940』。ナンバー1ヒットのうち、1位の獲得週が多かったもの順に掲載(同点の場合、チャートに留まった週が多い方を優先)。 【1904年の主なヒットや音楽的出来事】 ○「ミュージカルの父」と称されるジョージ・M・コーハンが「最初のアメリカン・ミュージカル」と言われる『リトル・ジョニー・ジョーンズ』を上演。*動画は伝記映画より。 ○20世紀初頭を代表する歌手ビリー・マレイが「Bedelia」で最初のナンバーワン・ヒット。 ○ハイドン・カルテッ..

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ミーン・ストリート〜NYの下町に流れた不朽のラブソング「Be My Baby」

ある曲を聴くと、特定の映像や風景を思い浮かべることがある。人によってそれは個人的な想い出であったり、ミュージック・ビデオのワンシーンかもしれない。例えば、不朽の名曲であるロネッツの「Be My Baby」。あの冒頭の「ドッ・ドドッ・ドッ」というドラム音が響くと、反射的に2本の映画のオープニングが蘇る。 1つは『ダーティ・ダンシング』。そしてもう一つは今回紹介する『ミーン・ストリート』(Mean Streets/1973)。前者がこれから始まる青春の躍動の示唆的役割を果たしているのに対し、後者ははっきり言って世界観がまるっきり一致していない。映っているのはNYの下町の薄暗いアパートにチープなベッド。完全に意表を突く選曲なのだ。 (このあたりのことはこちらのコラムで) ダーティ・ダンシング/ミーン・ストリート〜史上最高のラブソング「Be My Baby」 『ミーン・ストリート』は、マーチン・スコセッシ監督とロバート・デ・ニーロのコンビ第1作としても知られ、反逆精神溢れる両者はこの作品を機にアメリカ映画界のメインストリームへと踏み込んでいく。チンピラやギャングを描かせたら右に出る者はいないスコセッシにとって、本作は後の『タクシー・ドライバー』『グッドフェローズ』『カジノ』『ディパーテッド』などへの布石となった。 「幼馴染みたちが違和感を感じたら失敗作。でも気に入ってくれた」と語っているように、リトル・イタリー地区で育ったスコセッシの自伝的要素が強い作品。自らが抱えていた想いや葛藤が詰まった当時の集大成と言い切る。 たった一ヶ月、夜の街をロケに撮影したというだけあって、『ミーン・ストリ..

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1月のナンバーワンアルバム⑦〜バーブラ・ストライサンド/ジム・クロウチほか

★ダウンロード/ストリーミング時代の色彩別アルバムガイド 「TAP the COLOR」連載第315回〜MONOCHROME〜 1990年代以降、ビルボードのアルバムチャートは売り上げに基づいた集計方法に変わった。さらにゼロ年代に入るとネット配信が普及してCDやアルバムが売れなくなった。その影響もあって現在のチャートはほぼ毎週のようにナンバーワンが入れ替わり、すぐにトップ10圏外へランクダウンしてしまう(その代わりに年に数枚だけビッグヒットが生まれる)。だが70〜80年代はナンバーワンになること自体が困難で、言い換えればそれらは「時代のサウンドトラック」として確かに機能していた。1月にはどんなアルバムがナンバーワンになったのだろう? あなたの好きな色は?〜TAP the COLORのバックナンバーはこちらから バーブラ・ストライサンド『Barbra Streisand’s Greatest Hits Volume 2』(1978) この人を紹介するたびに「未だに来日公演が実現しない超大物エンターテイナー」というフレーズが避けられない(もはや日本のステージは夢で終わりそう)が、1962年のデビューから2010年代まで6つのディケイド全てでナンバーワン・アルバムを記録している点も特筆すべき。本作はタイトル通り2枚目のベスト盤(3週1位)。シングルヒットを量産していた時期の総括という意味で、バーブラ入門編としてオススメの1枚。主演映画『追憶』や『スター誕生』の主題歌も収録。 iTunes Amazon マライア・キャリー『Music Box』(1993) マライア絶頂期の..

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デヴィット・ボウイが共鳴し、コラボレートしたバンド、アーケイド・ファイア

2016年の1月10日、デヴィット・ボウイが亡くなったというニュースが駆け巡り、多くの音楽ファンやアーティストたちが哀悼の意を示した。 その後、世界中のファンやアーティストが彼の曲を歌い演奏し、彼の功績をたたえるイベントが開催された。 その中で唯一ボウイの公式サイトが紹介したイベントがある。 「今世界中でボウイの追悼がいくつも行われていて、グーグルでデヴィット・ボウイ追悼と検索すると8600万くらいの結果が出てきます。なので、一つだけここで紹介するのは不公平とは思いつつ、でもデヴィット・ボウイ自身がおそらく一つだけ紹介するであろうバンドがいます。アーケイド・ファイアです。」 カナダのロックバンド、アーケイド・ファイアはニューオーリンズでジャズバンドと共に街を練り歩く「Pretty Things」を行った。 音楽を愛したボウイを、セカンド・ラインというニューオーリンズ独特の葬列で悼んだのである。 バンドのフロントマン、ウィン・バトラーは、ファンとジャズバンドと共にボウイの「Heroes」を歌いながら街中を歩き回った。 彼らとデヴィット・ボウイは、30歳近く年齢が離れていた。 しかし、音楽を通して固い絆で結ばれていたのである。 カリフォルニアで生まれたウィン・バトラーは、祖父がジャズ・ギタリストであったこともあり、生まれた時から様々な音楽に囲まれて育った。 大学進学を機にカナダへ移住した彼は、ハイチ系移民であったレジヌー・シャサーニュと出会う。 お互いにソングライターを志していた二人は、周囲のミュージシャン志望の若者たちを集めてアーケイド・ファイアを結成する。 ロックや民族音楽、..

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ジョー・ペリー少年時代②〜ようやく手に入れたアコースティックギター、ビートルズの衝撃

「50年代から60年代に時代が移る頃、俺はロックンロールとリズム&ブルースに膝までどっぷり浸かっていた。ラジオにかじりついてはチャック・ベリーの演奏とロイ・オービソンの歌を聴いていたよ。」 10歳を過ぎた頃には、彼はもうエレキギターの虜となっていた。 チャック・ベリーに憧れ、とにかくギターを手に入れることで頭がいっぱいだったという。 「親は俺にダンスを習わせたがっていたよ。まだワルツとかフォックストロット(社交ダンス)が主流だった時代、俺にとってダンス教室なんか悪夢としか言いようがなかった。無理矢理通わされた時期もあったよ。そして親がすすめるままにクラリネットまで買い与えられて…もう最悪だったよ。」 彼は数週間でクラリネットを放り出して、両親に直談判した。 「ギターを買ってくれよ!お願いだから!どうしてもギターが必要なんだ!」 ついに両親が折れた。 ある日、彼の家に梱包されたギターが届いた。 プレゼントされた楽器は、シルバートーンの学生用モデルで、価格は12ドル95セントだった。 ギターと一緒に赤白青のストラップ、イラストが描かれた簡単なマニュアル、取扱説明の45回転レコードが付属品として付いていた。 「心臓が狂ったように暴れだすのを感じたよ。左利きの俺は、ごく自然に右手でネックを持って左手でかき鳴らしてみたんだ。すぐに間違いだと気づいて逆に持ち替えたんだ(笑)利き手が逆だろうが何だろうが、俺はベーシックなコード進行を徐々に覚えていったよ。だんだんとポップソングに合わせて弾けるようになっていったんだ。」 こうして幕を開けた彼のギター人生だったが…程なくして不運な出..

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レミー・キルミスター27歳〜初めて踏んだアメリカの地、L.Aのホテルで書いた楽曲“モーターヘッド”

ヘヴィメタル界の重鎮モーターヘッドのボーカル&ベースを担当し、HR/HMシーンにおけるカリスマ的存在だったレミー・キルミスター。 1945年、彼はイギリスのスタフォードシア州ストークオントレントで生まれ、ウェールズのアングルシー島で育った。 少年時代からライヴ通いし、駆け出し時代のザ・ビートルズのステージを実体験している。 1960年代、マンチェスターでバンド活動をスタートさせた彼はロンドンに出ると、ジミ・ヘンドリックスのローディーを経験することとなる。 北インドの太鼓の一種“タブラ”を使用した異色ロックバンド、サム・ゴパルでボーカルとギターを担当した後に、1972年(当時26歳)にサイケデリックロックバンド、ホークウインドにボーカル&ベーシストとして加入する。 翌1973年(当時27歳)から約2年間にわたり同バンドの全盛期を支えたが、ドラッグの問題などで1975年に解雇される。 「ホークウインドってのは、当時としちゃドえらい見世物だったと思う。いわゆるピッピー風のラブ&ピース的グループとは一線を画してたんだ。強烈な色とりどりの照明を大量に使いながら、バンド自体はショーの間ほぼ全編暗闇の中に居たんだよ。俺達の頭の上では壮大なライトショーが展開していた。18のスクリーンを使って、溶けてゆくオイルとか、戦争や政治的なシーン、奇妙な標語やアニメーションなんかを次々に流すんだ!」 彼らがステージに登場すると、大音量の演奏が響く中、ダンサー達がメンバーの横でのたうち回り、アシッドで飛びまくったオーディエンスがフロアで踊りまくっていた。 「あのバンドに入って一番良かったことは、イング..

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フィル・ライノット〜英雄になった褐色のアイルランド人ロッカー

いわゆるブリティッシュ・ハード・ロックの代表格とされながらも、アイルランド・スピリットを内に秘めた印象的な楽曲の数々で、1970年代にひときわ強い個性を放ったバンド──シン・リジィ。 その中心人物フィル・ライノットは、1949年にアイルランド人の母とブラジル人の父の間に生まれた。フィルは幼少期から思春期まで、自らの褐色の肌に対する差別意識と向き合いながら、次第にアイルランド人としてのアイデンティティを確立したという。ロックが若い世代に対して重要な意味を持ち始めた1960年代。彼もそんな時代の空気を吸い込んでいたに違いない。 1970年にシン・リジィはデビューするが、初ヒットは1973年にUKチャートの6位まで上昇した「Whiskey In The Jar」。フィルはダブリン周辺のフォーク・ミュージシャンたちと交友していたというから、この有名なアイルランド民謡をロック調にアレンジしたのは当然の成り行きだったのだろう。 フィルのソングライティングには、「褐色の肌を持ったアイルランド人」としてのアイデンティティを求め続けた日々が反映されている。そこにロックという表現手段が溶け込むことによって、シン・リジィ独特の世界が生まれる。それがどんなにハードな音であっても、どこかに必ず一筋の“哀切感”や“流浪感”が潜んでいる。 これがアイルランド系の若者たちの琴線に触れないわけがない。例えば、1976年の彼ら最大のヒット曲「The Boys Are Back In Town」はその好例だ。 フィルを語る時、同じアイルランド人のギタリスト、ゲイリー・ムーアの名を忘れるわけにはいかない。1978年に..

左胸を泣かせるソウル・バラードの世界〜忌野清志郎/オーティス/サム/ジャッキー

ボビー・ブランド

ボビー・ブランドは黒人の聴衆に向けた全国巡業、いわゆるチタリン・サーキットの帝王として君臨したシンガーだ。 ゴスペル、R&B、ジャンプ、バラード、ソウルなど、すべてにブルースが根付いている独特の歌唱は、骨太でいて滑らかである。 忌野清志郎は若い頃からよくボビーに似ていると指摘されたという。 ボビーの代表曲の「メンバーズ・オンリー(Members only)」について、エッセイ集「瀕死のすごろく問屋」のなかでこう記している。 とても大切なことなんだ。 君がブルースを忘れないように歌ってあげたいんだ。 俺のこの気持ちについて歌っているブルースを歌って君に聴いて欲しいのさ。 俺はいつも涙する。 「メンバーズ・オンリー」っていう歌を聴いたら誰だって泣くはずだ。 メンバーズ・オンリー プライベートなパーティーさ 入るのにお金なんかいらないよ 小切手も持って来なくていい 傷ついた心だけ持っておいで だって今夜はメンバーズ・オンリー 女と別れたっていうあんた 男と別れたっていうあんた あんたたちはたくさんの問題を抱えている 人生を全部ひっくるめてね だからパーティーを開いてるんだ 傷ついた心のためにね そう、今夜はメンバーズ・オンリー ボビーはテネシー州ローズマークの小さな町で生まれ、そこでラジオから流れてくるスピリチュアル・ミュージックと、「グランド・オール・オープリー」のカントリー・ソングを聴いて育った。 子供の頃から畑で木綿を摘む仕事をしていて、学校にはあまり通うことができなかった。 家族で1947年にメンフィスに引っ越したときから、彼は地域の教会で歌うゴスペル・グループに加わっ..

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初来日したときに作家の色川武大(阿佐田哲也)が呼びかけたプライベートな催しで乗りに乗って歌ったキャロル・スローン

ニューヨーク・ジャズ・カルテット(N.Y.J.Q)の一員として1977年10月に初来日したジャズシンガーのキャロル・スローンは、当時40歳だったがすでに「知る人ぞ知るかつての歌手」といった存在になっていた。 1961年にメジャーのコロンビアで吹き込んだデビュー・アルバム『アウト・オブ・ザ・ブルー』と、ニューヨークの30th Streetにあったコロンビア・スタジオに聴衆を招いて作られた公開録音盤『Live At 30th Street』(1962年)が好評だったにもかかわらず、彼女の新作はそれからもう10年以上も出ていなかった。 内外に実力を認められていながらもコマーシャリズムに乗らないという理由から、キャロルは一時的に歌をやめて事務職で働いていたこともあったという。 来日時のコンサートのセットリストは第1部がN.Y.J.Qの演奏で、第2部になってからキャロルとジョニー・ハートマンが、各々5曲ずつ歌うという構成だった。 しかし会場に足を運んでいたジャズ評論家の野口久光が、アルバムのライナーノーツにこんな文章を残している。 彼女の歌に期待して行った人にはたった5曲ではいかにも食い足りない。ハートマンがもう一つ乗らず、前回よりもよくなかっただけにキャロルにもっと歌って欲しいと思ったファンは多かったようだ。そういうファンの失望、欲求不満に応えるかのように彼女は短い滞在中に日本で2枚のアルバムを吹き込んで帰った。 キャロルが来日時に2枚のアルバムを吹き込んだのは、招聘元のオールアート・プロモーション社長である石塚孝夫が、日本におけるレコード発売の権利を得ていたから可能になった。 ..

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エンパイア・レコード〜レコード店を舞台にしたリヴ・タイラー出演の青春映画

人によって思い入れのある時代はそれぞれ。特に自分のことしか考えなくてもOKだった青春期(これも人によっては違うけど、ここでは10代半ば〜20代半ばに設定)に聴いた音楽・観た映画・読んだ小説は、40代や50代を過ぎた頃に再会したりすると、強烈なノスタルジーに包まれることがある。同世代が集まれば、一晩中盛り上がること必至だろう。 今回たまたま『エンパイア・レコード』(Empire Records/1995)を観て、1990年代半ばの光景や空気が突如として蘇ってきた。あの時代の音楽といえば、グランジから始まったオルタナティヴ・ロック、オアシスらのブリット・ポップ、グリーン・デイらのメロコアがあった。 他にもキャングスタ・ラップや渋谷系やコムロ系も盛り上がっていたし、コギャルたちが若者文化の主役になった。プレステのゲーム人気やタランティーノ映画の登場もこの頃。カルチャー面だけ切り取ると、街へ繰り出せばカラフルな色気やちょっと危ない体臭のようなものを感じられた時代。ネットやSNSに覆われる以前の出来事だ。 あの頃、映画を観る手段としては、劇場に行くか、レンタル店で借りるか、TVの深夜放送で眺めるか、そんな程度だったけど、ノルタルジーを感じるのは老若男女が知るメジャー大作より、「B級」「低予算」と呼ばれる青春・コメディ・ミステリー系のように思える。 とにかく、ほとんど特定の世代しか観てないはずの、しかも当時はそんなに愛着のなかった映画と再会して、なぜかあの時代の思い出が広がっていったという不思議な体験。あなたにとってそんな映画はありますか? 『エンパイア・レコード』は、『タイムズ・スクエア..

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1月のナンバーワンアルバム⑥〜エミネム/ヴァニラ・アイスほか

★ダウンロード/ストリーミング時代の色彩別アルバムガイド 「TAP the COLOR」連載第314回〜BLUE〜 1990年代以降、ビルボードのアルバムチャートは売り上げに基づいた集計方法に変わった。さらにゼロ年代に入るとネット配信が普及してCDやアルバムが売れなくなった。その影響もあって現在のチャートはほぼ毎週のようにナンバーワンが入れ替わり、すぐにトップ10圏外へランクダウンしてしまう(その代わりに年に数枚だけビッグヒットが生まれる)。だが70〜80年代はナンバーワンになること自体が困難で、言い換えればそれらは「時代のサウンドトラック」として確かに機能していた。1月にはどんなアルバムがナンバーワンになったのだろう? あなたの好きな色は?〜TAP the COLORのバックナンバーはこちらから エミネム『Encore』(2004) 2018年は2枚のアルバムをリリースしたエミネム。もちろんどちらも1位を獲得したが、46歳となった今でもその影響力の大きさは健在だ。本作は『The Eminem Show』(2002)や半自伝的映画『8マイル』の公開に続くメジャー4作目(4週1位)。マイケル・ジャクソンともめた「Just Lose It」を収録。他に驚いたのは、80年代アイドルのマルティカのヒット曲「Toy Soldiers」をサンプリングするという斬新さ。そしてエミネムが復活するのは2009年の『Relapse』だ。 (こちらのコラムもオススメです) 8 Mile〜マイクを一度握ったら“裁かれる世界”を舞台にしたエミネム主演作 iTunes Amazon ヴァニラ・..

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年明けとともに始まり、新しい音楽を発信して時代を牽引し続けた「トップ・オブ・ザ・ポップス」

1964年の元日、のちの音楽シーンに多大な影響を及ぼすことになるテレビ番組が英BBCでスタートした。 その名も「トップ・オブ・ザ・ポップス」。独自の音楽チャートを作成し、その中から注目のミュージシャンを紹介するこの番組は、当時人気だった若者向けのラジオ番組から着想を得て企画された。 栄えある第一回のトップバッターを飾ったのはローリング・ストーンズだった。 今でこそロック史の頂点に君臨するバンドのひとつといっても過言ではないストーンズだが、この頃は結成してまだ2年目であり、若い女性やロック・ファンからの人気はあっても、世間的な認知はまだまだだった。 番組で披露したのは、ビートルズのジョン・レノンとポール・マッカートニーの2人から提供され、前年の秋に2ndシングルとしてリリースされた「彼氏になりたい」だ。 ストーンズの他には、チャート首位を独走していたビートルズの「抱きしめたい」を引きずり下ろし、ビートルズのライバルとして注目を集めていたデイヴ・クラーク・ファイヴやホリーズ、デビュー・シングルの「二人だけのデート」が大ヒットしていた新人女性シンガーのダスティ・スプリングフィールドなどが出演している。 「トップ・オブ・ザ・ポップス」という番組名から連想されるのは、人気のポップスを紹介するという典型的な音楽番組だろう。しかし実際には、これから人気になろうという若手ミュージシャンを積極的に取り上げていたことが分かる。 1966年の12月には、デビューして間もないジミ・ヘンドリックスをいち早く取り上げ、その名をイギリス中に知らしめた。当時15歳だったスティングは番組を見て度肝を抜かれ、そ..

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松重 豊 スペシャル・インタビュー【後編】音楽好きとしての飽くなき好奇心 そして、甲本ヒロトとの友情を語る

「超」がつくほどの音楽偏愛俳優・松重豊さん。彼がパーソナリティを務めるラジオ番組『深夜の音楽食堂』(Fm yokohama・毎週火曜深夜0:30より放送中)は、TAP the POPでも紹介してきた音楽がたくさん流れていたりと、最近では珍しいぐらいに骨太な音楽番組です。 勝手にシンパシーを感じてしまったTAP編集部は、番組収録後のスタジオに直撃し、松重さんに取材を敢行! スペシャル・インタビュー後編では、フットワーク軽くライブ現場にも足を運ぶ、音楽リスナーとしての柔軟さの秘密、そして長年の友人である甲本ヒロトさんとの関係について、たっぷり語ってもらいました。 松重豊 スペシャル・インタビュー前編はコチラ 取材・文/宮内 健 松重 豊(まつしげ・ゆたか) 1963年福岡県出身。蜷川スタジオを経て、映画、舞台、ドラマなど幅広く活躍する俳優。2012年に放送開始した連続TVドラマ初主演作『孤独のグルメ』(久住昌之・原作)はシーズン7まで続く大ヒットシリーズとなり、2年連続大晦日スペシャルも放送(テレビ東京:2018年12月31日22時〜)。 主な出演作に、映画『血と骨』『しゃべれどもしゃべれども』『アウトレイジ ビヨンド』、ドラマ『ちりとてちん』『八重の桜』『アンナチュラル』など。2019年は、NHK正月時代劇『家康、江戸を建てる』前編「水を制す」 に出演。(総合:1月2日21時〜、BS4K:1月1日19時〜)。また、1月6日スタートのNHK大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』(総合:毎週日曜20時〜)にも出演が決定している。 ──松重さんは、2018年夏にはサマーソニ..

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アイ・ソー・ザ・ライト〜悲しみを歌い続けた真のスーパースター、ハンク・ウィリアムス

誰もが闇を抱えて生きている。 やりきれない怒り、悲しみ、後悔……。 僕がすべて歌にするよ。 そうすれば、みんなが辛いことを忘れられるだろ。 辛さは全部引き受ける。 ロックンロールの登場によってすべてが塗り替えられてしまう前夜、1953年1月1日のこと。これからの活躍が最も期待されていた29歳のカントリー・シンガーが他界した──その名はハンク・ウィリアムス。エルヴィス・プレスリーがまだ南部の名もなき青年だった頃、ハンクこそがスーパースターの未来だった。 アラバマ州の母子家庭で育った幼少時代のハンクは、貧しい生活の中で音楽という光を見る。8歳の時に母親にギターを買ってもらうと、路上で黒人の流し歌手にギターを習った。多感なハンクは路上演奏者から技巧や歌唱を吸収していった。そしてブルーズやゴスペルといった黒人音楽、カーター・ファミリー、ビル・モンロー、ロイ・エイカフといったカントリー音楽の先駆者たちにも耳を傾けた。 才能はすぐに開花して、地元のコンテストで優勝したり、ラジオ局で自分の番組を持つようになった。まだ10代半ばのことだ。その後、自身のバンドであるドリフティング・カウボーイズを結成し、母親がマネージメントを買って出た。学校、ダンスパーティ、酒場などで演奏する日々を送っていく。第二次世界大戦の影響でバンド稼業を休止して、造船会社で働いたこともあった。 1947年にレコード・デビュー。「ムーヴ・イット・オン・オーバー」がカントリー・チャートの4位を記録する。1949年には初のナンバーワン・ヒット「ラヴシック・ブルーズ」を放つと、念願のグランド・オール・オプリ(カントリーの音楽の聖..

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タウンズ・ヴァン・ザント〜放浪人生を歩み続けた伝説のアウトロー・ミュージシャン

耳を傾けていると、本物の音楽とは何かという想いをそっと心に届けてくれるアーティストがごく稀にいる。そういう人は例外なく無名で売り上げも少なかったりする。 だが、一部の優れたミュージシャンの間では、その人は彼らに多大な影響を与え、深いリスペクトを受けて伝説となっている。我々はそうしてその人の生前の作品を知ることになり、魂の音楽に心打たれる。 タウンズ・ヴァン・ザントは、まさにそんな“伝説”の代表格かもしれない。さすらいのシンガー・ソングライターとして、あるいはアウトローのカントリー・ミュージシャンとして、彼の名と音楽は歴史に静かに刻まれることになった。 スターになるのではなく、いい曲を作りたいという気持ちしかなかったその人生は、ブルーズでありハイロンサムそのものだった。 地獄の下にブルーズがある 1944年、テキサス州フォートワース生まれ。かなり裕福な家庭で育ったにもかかわらず、思春期の頃にライトニン・ホプキンスのブルースを聴いてギターを始める。 最初の結婚を機に歌で稼ぐことを決意。新婚早々に初めて作った曲は、「Waiting Around to Die」というラブソングとは程遠い死の歌だった。 酒やドラッグの影響だったのか、タウンズには自殺の恐れがあり、家族はショック療法を受けさせる。だがこれと代償に思わぬことが起こってしまう。子供時代の記憶を喪失したのだ。 自分のルーツが消えた彼は、旅という移動行為に取り憑かれる。巡業と放浪の人生の始まりだった。これによってお金や安定という世界観とは縁を切った。 孤絶は存在の状態で、孤独は心の状態だ。破産と貧しさと同じだ 1968年に..

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ストレンジ・デイズ〜1999年12月31日の世紀末パーティと電子ドラッグ「スクイッド」

「世紀末」「ミレニアム」と盛んに騒がれた1999〜2000年頃。20世紀の終わりに漂っていた倦怠感のようなものと、来たるべきまだ見ぬ21世紀への期待感のようなものが混ざり合って、何か異様とも思える空気が巨大なビル群や人々を覆っていた。 また、インターネット普及によるサイバースペース(電脳空間)感覚が身近になり、日本でもiモードの登場によってバッグやポケットに入れて持ち歩いていた携帯電話にその世界観が組み込まれた。 映画『ストレンジ・デイズ』(Strange Days/1995)はサブタイトルに「1999年12月31日」とあるように、まさにそんな時代の喧騒ぶりを描いた作品だった。製作・脚本を担当したのはジェームズ・キャメロン。『ターミネーター』シリーズや『エイリアン2』で勢いのあったキャメロンが長年温めてきた企画で、自身の製作会社ライトストーム・エンターテイメントによる『トゥルー・ライズ』に続く第2弾作品にあたる。 舞台は1999年の大晦日寸前のロサンゼルス。モラルが後退して街の至る所で犯罪が多発し、人種差別をきっかけとする暴動ムードも高まりつつある。人々はそんな崩壊寸前の社会でメガパーティを祝福することに心奪われている。 キャメロンはこうした描写を軸に、もう一つ強烈な仕掛けを用意した。それは「スクイッド」と呼ばれる超電導量子干渉装置で、他人の体験を五感や感情とともに再生できるデジタル・ディスク。作家ウィリアム・ギブソンの原作による映画『JM』でも登場したガジェットで、非合法電子ドラッグだ。 セックスやスリルを扱う「スクイッド」の売人として退廃的な暮らしをしているレニーは、警官時..

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小池龍平──畠山美由紀、bonobosなどで活躍する「リズム・ギタリスト」心地良さ満点のソロ作

1978年東京生まれの彼は、大学在学中にブラジル音楽をはじめ各地の黒人音楽に惹かれて、リズムギターに傾倒していったという。2003年にはシンガーのLica、ベースの織原良次とともにブラジル音楽のアコースティック・ユニット〈Bophana〉を結成。2006年には自らを中心としたバンド〈Hands of Creation〉も結成し、いずれも高い評価を集めた。 その後は、ソロ・プロジェクト〈bonito〉名義でマイケル・ジャクソンのアコースティック・ギター弾き語りによるカバー集を発表したり、元デタミネーションズのYOSSY、icchieらとの〈JOBIM NIGHT〉や、ギタリスト長久保寛之とのユニット〈GUITAR EXOTICA〉など、数々の形態による活動を展開。並行して畠山美由紀、アン・サリー、Port of Notes、UAなど数多くのサポートとしても活躍してきた。 2015年には、かねてからライブやレコーディングにサポートとして参加してきた〈bonobos〉に正式加入。また翌年にはレゲエ・バンド〈LITTLE TEMPO〉にもギタリストとして加入するなど、さまざまなジャンルを自由に渡り歩きながら、リズムギターの表現を追求してきた。 そんな彼が、「長い年月で培ってきたリズムギターとコーラスワークのすべてを集約させた」と語るのが、ソロ・アルバム『Butterfly』だ。クラシックギター二本と多重録音によるボーカル、ボイスパーカッション、ブルースハープと口笛を駆使し、小池龍平がたった一人で作り上げた本作。2曲のオリジナル曲に加えて、ボブ・マーリィ、ピーター・ポール&マリー、ス..

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松任谷由実とも通じる米津玄師の「Lemon」〜個人的な経験とニューミュージックのリスペクトから生まれた新たなスタンダード〜

2018年において最も多くの人に聴かれた楽曲は、米津玄師の「Lemon」ではないだろうか。 シングル売り上げ40万枚、配信では170万ダウンロード、YouTubeの再生回数は2億回を突破。さらには年間のカラオケランキングでも1位を獲得した。 セールス面もさることながら、テレビやラジオ、そして街でも、「Lemon」は流れて続けていた。 これほどいたる所で耳にする音楽は、近年では珍しいように感じる。 インターネットが普及して以降、人々の趣味やライフスタイルは細分化し「みんなが知っているヒット曲」は生まれないと言われていた。 しかし、米津玄師の音楽は年齢や性別を問わず、日本中の人々に聴かれていた。 「国民的ヒットは生まれない」という通念を、彼はたった一曲によって壊したのである。 米津が「Lemon」を作り出した原点には、彼自身の体験とニューミュージックの時代に活躍したミュージシャンからの影響があった。 「Lemon」の制作は、ドラマ「アンナチュラル」の主題歌依頼が米津に届いたことから始まった。 法医解剖施設が舞台で、死をテーマにしたヒューマンドラマだったことから、人間の生と死を歌い続けていた彼に白羽の矢が立ったのだ。 米津は作品に込められた熱量や物語としての美しさに惹かれ、楽曲を作り始めた。 しかし、彼の価値観を大きく揺るがす出来事が訪れる。制作途中に祖父が亡くなったのである。 「自分は死にまつわるようなことをずっと歌ってきた人間だから、それを音楽にするというのは言ってみればなじみの深いものだったんです。」 「でも、自分の目の前に死が現れたとき、果たしてそれは一体どういうことなんだ..

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松重 豊 スペシャル・インタビュー【前編】パンクからはじまった音楽遍歴と、音楽でつながる家族の絆を語る

ドラマ『孤独のグルメ』をはじめ、テレビ、映画、舞台と八面六臂の大活躍をみせる俳優・松重豊さん。実は無類の音楽好きだってご存知でしたか?  松重さんがパーソナリティを務めるラジオ番組『深夜の音楽食堂』(Fm yokohama・毎週火曜深夜0:30より放送中)は、T字路s、Rei、cero、片想い、NakamuraEmi……などなど、TAP the POPでも紹介してきた気鋭のアーティストたちを次々にゲストに招き、ディープな音楽談義を展開。流行に流されない芯のある音楽を毎回たくさん紹介している、最近では珍しいほどに骨太な音楽番組なんです。 自分を育んだルーツにある音楽を大事にしながら、50代半ばを超えた現在も、新しい音楽を貪欲なまでに漁り続けている松重豊さんは、TAP the POPが考える理想のリスナー像だ! ということで、サイト開設5周年を記念してスペシャル・インタビューを敢行。ラジオ番組収録後のスタジオで、あふれる音楽愛をたっぷり語ってもらいました!(前編・後編に分けてお届けします) 取材・文/宮内 健 松重 豊(まつしげ・ゆたか) 1963年福岡県出身。蜷川スタジオを経て、映画、舞台、ドラマなど幅広く活躍する俳優。2012年に放送開始した連続TVドラマ初主演作『孤独のグルメ』(久住昌之・原作)はシーズン7まで続く大ヒットシリーズとなり、2年連続大晦日スペシャルも放送(テレビ東京:2018年12月31日22時〜)。 主な出演作に、映画『血と骨』『しゃべれどもしゃべれども』『アウトレイジ ビヨンド』、ドラマ『ちりとてちん』『八重の桜』『アンナチュラル』など。2019年は、N..

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