年収132億円のロックバンドは?〜2018年世界のミュージシャン収入ランキング

毎年恒例となる「Celebrity 100」の2018年版を、アメリカの経済誌Forbesが7月16日に発表した。「The World’s Highest-Paid Entertainers」と題して、今年も世界のエンターテイナー/スーパースターが1年間(昨年6月1日〜今年6月1日)にどれだけ稼いだかをランキングしたものになった。なお、数字は税引き前の金額。 1999年〜2014年の「Celebrity 100」」は収入面だけでなく、ネットやソーシャルで話題になった回数、雑誌の表紙やTVや新聞やラジオといったメディアで話題になった回数など影響力も加味したパワーランキング方式だったが、どうしてもアメリカ中心で測ることになってしまい、そこから脱却するために2015年より以前の収入ランキングに回帰している(マイケル・ジャクソンやエルヴィス・プレスリーなどの故人は対象外)。 今回のランキングには、スポーツ選手33名、司会者/タレント12名、俳優11名、コメディアン3名、作家2名、マジシャン1名、TVタレント1名などが並ぶ中、ミュージシャンは最多の37組(バンド含む)となった。 また、ジャンル別ではロックが14組(前年9組)、ヒップホップ/R&Bが11組(前年9組)、ポップ歌手が6組(前年8組)、カントリーが4組(前年8組)、EDMが2組(前年3組)。 ソロアーティストの年齢別では20代が3組(前年7組)、30代が7組(前年6組)、40代が4組(前年8組)、50代が3組(前年3組)、60代が2組(前年2組)、70代が3組(前年4組)となっている。 2018年の「Celebrity 100..

追悼・常田富士男~反体制ミュージカル『真田風雲録』で注目を集めて、「私のビートルズ」をレコードに吹き込んだ個性派俳優

ハッケンサックに住むことを夢見る移民

前回のコラムで紹介した「ウィーン」は、ビリー・ジョエルの代表作となったアルバム『ストレンジャー』のB面1曲目に収録された作品である。 ♪ スピードを落とすんだ クレイジー・チャイルド ♪ 自らに言い聞かせるようにして歌われるその歌は、ビリーが長く音信不通だった父とウィーンで再会した時の出来事をきっかけに書かれたものだった。 そしてアルバム『ストレンジャー』のA面1曲目に収録されている「ムーヴィン・アウト」にも同じ視線が注がれている。 ♪ 雑貨屋で働くアンソニーは 将来のために小銭を貯めている 母親のレオーネがドアに 残したメモ書きは 「ソニー、国に帰りましょう」 必死に働いても 心臓発作を起こすたけ わかったほうがいい ハッケンサックの家が必要なのは誰? 稼いだ金で手にするのはそれだけ? ♪ ニュージャージー州の北東部に位置するハッケンサックは、バーゲン郡の郡庁所在地だ。 ビリーがこの歌を書いた1970年代後半、この街は、ニューヨークのベッドタウンとして、特に移民たちの脚光を浴びた。 マンハッタンの中心部から20キロ弱、ワシントン・ハイツからジョージ・ワシントン橋を渡ってニュージャージー州フォートリーに入れば、そこからは10キロとちょっとの距離にあった。 そこは「移民たちにとっての約束の地」だった。バーゲン郡に住む者の4割弱が外国生まれ、というのが2013年の統計である。ちなみに、現在では、イタリア系、アイルランド系の住民が減り、アジア系の住民が増えている。 ♪ 時間の無駄ってことだな もし、そういうことなら ママ、成り上がるのはよして ここを出てくさ ♪ 「僕にも..

追悼・常田富士男~反体制ミュージカル『真田風雲録』で注目を集めて、「私のビートルズ」をレコードに吹き込んだ個性派俳優

追悼・浅利慶太~NHK交響楽団にボイコットされて窮地に立った27歳の小澤征爾を救った仲間たち

1959年にたった一人でヨーロッパに向かった小澤征爾は第9回ブザンソン国際指揮者コンクールで第1位になり、翌年はカラヤン国際指揮者コンクールでも第1位となった。 そしてカラヤンに師事した後、1961年からニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団の副指揮者に抜擢された。 日本の若者が世界のクラシック音楽の檜舞台で活躍し始めたことは、音楽ファンや関係者だけでなく社会的な関心も集めることになる。 ニューヨーク・フィルが日本公演のために羽田空港にやって来たのは、1961年4月24日のことである。 自力で海外に出て成功をつかんだ小澤にとって、それは約2年ぶりとなる帰国だった。 ハッチが開くと、みんなが「セイジが先に降りろ」と僕を押し出してくれた。出迎えていたのは懐かしい顔ぶれだ。おやじ。おふくろ。兄貴たちに弟のポン。成城の合唱グループ「城の音」のみんな。斎藤秀雄先生もいた。じーんと来た。 小澤征爾(左)とレナード・バーンスタイン(右) 小澤は完成したばかりの東京文化会館で正指揮者のバーンスタインから、「おまえがやるんだぞ」と言われていた黛敏郎作曲の「饗宴」を指揮した。 感激の日本デビューを飾った後、しばらく日本に残った小澤は5月に日本フィルハーモニー交響楽団、7月には初めてNHK交響楽団(N響)の指揮を務めた。 夏の終わりまで日本で過ごしてからニューヨークに戻った小澤は、翌62年の5月にニューヨーク・フィルの副指揮者の任期を終えて帰国する。 そして名門N響との間で、「客演指揮者」契約が結ばれた。 6月にはメシアン作曲「トゥランガリラ交響曲」の特別公演を行い、日本のクラシック界で最高のオ..

追悼・常田富士男~反体制ミュージカル『真田風雲録』で注目を集めて、「私のビートルズ」をレコードに吹き込んだ個性派俳優

ポール・ホワイトマン楽団がヒットを連発した1922年、サッチモがシカゴへ渡る

「TAP the CHART」122回は、1922年を取り上げます。 【1922年のTOP 10 HITS】 ❶April Showers / Al Jolson ❷Three O’Clock in The Morning / Paul Whiteman ❸Stumbling / Paul Whiteman ❹Mr.Gallagher & Mr.Shean / Gallagher & Shean ❺Hot Lips / Paul Whiteman ❻Angel Child / Al Jolson ❼On The Alamo / Isham Jones ❽Do it Again / Paul Whiteman ❾Mr.Gallagher & Mr.Shean / Ernest Hare & Billy Jones ❿My Buddy / Henry Burr *参考/Joel Whitburn監修『Pop Memories 1900-1940』。ナンバー1ヒットのうち、1位の獲得週が多かったもの順に掲載(同点の場合、チャートに留まった週が多い方を優先)。 【1922年の主な音楽的出来事】 ○ポール・ホワイトマン楽団がヒットを連発。 ○アル・ジョルソンの「April Showers」がヒット。 ○アイリーン・スタンリーの「Sweet Indiana Home」がヒット。 ○クラシック・ブルーズ歌手の先駆者メイミー・スミスが「Lonesome Mama Blues」を録音。 ○フィドル奏者のエック・ロバートソンが歴史的録音。翌年のフィドリン・ジョン・カーソンと並び、「カント..

追悼・常田富士男~反体制ミュージカル『真田風雲録』で注目を集めて、「私のビートルズ」をレコードに吹き込んだ個性派俳優

「なあ、泣くな、泣かないでくれ」とボブ・マーリーが祈る「ノー・ウーマン・ノー・クライ」のライブ録音

1975年の6月から始まった初のワールド・ツアーで、ボブ・マーリー&ウェイラーズは北米各地にある400人キャパのクラブを回って公演をした。 ところが6月18日にニューヨークのセントラルパークで開かれたサマーフェスティバルには、なんと1万5000人もの観衆が集まってきた。 きっかけはエリック・クラプトンがアルバム「461オーシャン・ブールヴァード」で、「アイ・ショット・ザ・シェリフ」をカヴァーして取り上げたことだった。 シングル・カットされた「アイ・ショット・ザ・シェリフ」が74年9月14日に全米1位となり、世界中の若者にレゲエという音楽を知らせる役目を果たしたのである。 ジャマイカのレゲエに向けられる関心は、これによって格段にヒートアップしていった。 この時点でボブ・マーリーは欧米のロック・ミュージシャンたちから、最も関心を集める存在になったとも言えるだろう。 全米ツアーの最終日となったロスアンゼルスのロキシークラブには、ボブ・ディラン、ジョニ・ミッチェル、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スター、ローリング・ストーンズ、ザ・バンド、グレイトフル・デッドのメンバーたちが客席に詰めかけた。 ライブ終了後にはジョージ・ハリスンが、「この10年で最高のライブ」と語ったという言葉が、メディアを通して世界にまで広まったのだ。 ジャマイカからの移民が多く住むロンドンで、2日間にわたる公演が開かれたのはその年の7月18日からだった。 「ノー・ウーマン・ノー・クライ」のイントロが始まると、観客席からごく自然に歌声が湧き上がった。 「♫ なあ、泣くな、泣かないでくれ」とボブ・マーリーが、何度もなん..

追悼・常田富士男~反体制ミュージカル『真田風雲録』で注目を集めて、「私のビートルズ」をレコードに吹き込んだ個性派俳優

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