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ドラッグ・ソングとされた「雨の日の女」に隠された時代の伝道者の叫び声

♪ みんな、ゲット・ストーンドすりゃいいのさ ♪

マリファナでハイになった状態のことを、ストーンドといいます。
実際、スタジオではミュージシャンたちがマリファナを回し吸いながら、楽器まで交換して演奏した、という逸話が残された「雨の日の女」ですが、ボブ・ディランははっきりとこう言っているのです。
「私は、ドラッグ・ソングなど一度も書いたことはない」
だったら、思わせぶりなアレンジをするな、とも言いたくなるのですが、ラジオ局だけでなく、多くのリスナーがこの歌をドラッグ・ソングだと思い込んだのは事実でした。
しかし、ディランがドラッグ・ソングではない、と言うのであれば、「ストーン」は石を投げる、「ゲット・ストーンド」は石を投げつけられる、と訳してみるしかありません。

♪ いい子でいようとすると
  みんな君に石を投げるのさ
  言ってた通りに
  みんな君に石を投げるのさ
  家へ帰ろうとすると
  みんな君に石を投げるのさ
  それから君がひとりでいたって
  みんな君に石を投げるのさ
  でも、俺だけじゃないだろ
  みんな石を投げられりゃいいのさ ♪

石を投げる。。。
俺だけじゃない。。。
このフレーズから連想されたのが、ヨハネ福音書の一節でした。
律法学者やパリサイ人が、姦淫の罪でつかまったひとりの女性を連れてきて、イエスに問います。
「モーセの律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」
すると、イエスはこう答えます。
「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」
ディランはこの逸話をモチーフに、自らの浮気を自己弁..

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ラブ&マーシー 終わらないメロディー〜ビーチ・ボーイズとブライアン・ウィルソンの物語

1982年11月、ビーチ・ボーイズのメンバーから「解雇」を言い渡されたブライアン・ウィルソンは、その言葉がしばらく理解できなかった。「ビーチ・ボーイズを創ったのは僕なんだぞ!」と叫んでも、ドラッグやアルコールに溺れた退廃的な生活のせいで、遂に体重150キロ以上にまで達した彼の姿は、まるでグッドイヤーの飛行船のような身体だった。

当時の僕は、ドラッグ・トリップを繰り返す不幸な60年代を引きずったままの麻薬常用者だった。僕は深い霧のかかったような状態の中で生きていた。
頭の中に入ってくる知覚や心象は、理解できる記号にだけ置き換えられ、現実はキュビストの作品のように歪み、砕け散っていた。
僕はいつでも死ぬことができた。何度も自分にそう言い聞かせ、ただひたすら来るべき瞬間を期待して待っていた。いつも死に向かうジェットコースターの最前席に座っていた。

バンドが稼いだ金を引き続き得るためには、精神分析医のユージン・ランディに診てもらうことが条件と告げられる。選択肢などない。しかし、それは延々と監視される中での薬漬けの地獄のような日々の始まりでもあった……。
映画『ラブ&マーシー 終わらないメロディー』(LOVE&MERCY/2015)は、そんなブライアン・ウィルソンの監視された80年代と、『ペット・サウンズ』や『スマイル』といった“本物の音楽”の創造に取り組む60年代の姿が描かれた、すべての音楽/ロックファン必見の物語だ。
一人の人物を二人の役者が競演しているのも見どころで、60年代のブライアンを演じるのはポール・ダノ。80年代を演じるのはジョン・キューザック。監督は『ペット・サウンズ..

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サミー・デイヴィスJr.を偲んで①〜片目を失った“史上最高のエンターテイナー”の生い立ちと、成功への軽やかなステップ〜

1990年5月16日、サミー・デイヴィスJr.は64歳でこの世を去った。
もともと葉巻を片手にステージに立つほどのヘヴィースモーカーだったことから喉頭癌を患い、ビバリーヒルズにある自宅で静かに人生の幕を降ろした…。
その亡骸はカリフォルニア州グレンデールにある墓地に埋葬された。
歌手であり、俳優であり、ダンサーでもあった彼は、死後何年経っても“史上最高のエンターテイナー”として世界中で愛され続けている。
1925年12月8日、彼はニューヨーク州のハーレム地区でアフリカ系アメリカ人の父とプエルトリコ系ユダヤ人の母の間に生まれた。
ボードビルショー巡業を生業とする一家のもとで育った彼は、幼少の頃から歌やダンスのレッスンを受け、3歳のときにはすでに舞台に立っていたという。
旅回りが多く、学校に通うこともできなかった彼は、通信教育で高校卒業資格を取得する。

「俺のようなチビの鼻まがりのニグロとユダヤの混血には、これ以下ということがないんだ。だから、いつだって俺は昇り坂さ。」
ユダヤ系の血も引く黒人だった彼は、小柄で痩せていて、特にスタイルが良いわけでもなく、けっして美男とは言いがたい容姿だった。
黒人やユダヤ人への人種差別が蔓延していた当時のアメリカの社会において、彼もまたその被害者の一人だった。
19歳で徴兵されアメリカ陸軍に入隊した彼は、第二次世界大戦に一兵卒として参戦したものの、その経歴から最前線の兵士としてではなく、兵士向けのショーなどを行う慰問部隊に配属される。
除隊後すぐにショービジネス界に戻り人気を集めてゆく。
そして1954年、彼は28歳の時に高速道路で交通事故に遭い..

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サミー・デイヴィスJr.を偲んで②〜“史上最高のエンターテイナー”がステージで歌い続けた落ちぶれたダンサーの歌〜

歌、ダンス、モノマネ、巧みなトーク、そしてトランペット、ドラム、ビブラフォンの演奏、映画やテレビでの演技など、様々な“芸”を極め「Mr.エンターテインメント」と称されたサミー・デイヴィスJr.。
そんな彼が40代からこの世を去るまでの約20年間、ステージで大切に歌った“一曲”がある。
その曲の名は『Mr.ボー・ジャングルス』。
ドサまわりをし、刑務所に入っていることも多く、ダンスのギャラとして酒と少しばかりのチップをねだる…歌いながらそんな老ダンサーの姿を演じてみせる彼のステージはまさに“至芸”と呼ぶにふさわしいものだった。
ファンの間では“十八番”として知られているのだが、実は彼がこの歌を避けていた時期もあったのだという。
人気スターとして“落ちぶれた老ダンサー”を演じながら歌い踊っているうちは良いが、50歳を迎えた頃に体力的な衰えを感じるようになった彼は「今、自分が病気や事故にあって長いこと仕事を休むようになったなら、豪邸のローンなどでたちまち破産し、この老ダンサーのような境遇になってしまうだろう…」という恐怖にとらわれていたというのだ。
そのため、しばらくは出来るだけこの曲を歌わずにすますようにしていたという。
逆に言えば、彼はそれほどこの曲に打ち込み、歌に出てくる老ダンサーと一体化するほど感情移入していたのかもしれない。

ボージャングルという男に会ったことがある
ボロ靴で踊ってくれた
白髪まじりの髪
破れたシャツ
ダブダブのズボン
とても高く高くジャンプして
軽ろやかに着地したんだ
ボージャングルさん
ボージャングルさん
ボージャングルさん
踊っておくれ!
ニューオー..

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さらば青春の光〜“完璧な10代のライフスタイル”を追求したモッズ族

それは1973年の初め、暗く冷たい冬の夜。27歳だったピート・タウンゼンドが自宅のコテージに一人座りながら、記憶の旅に出たのが始まりだった。
新しい音楽と物語の構想に明け暮れていたピートの心に、突如として1964年のブライトン・ビーチでの想い出が蘇ってきたのだ。自分はロックスターとしてではなく「ファンの担い手となるべき」と考えていたピートは、ノートに一人のモッズ少年を主役にした風景を綴っていく。
その新しい音楽と物語である『Quadrophenia』(四重人格)は1973年10月にリリースされ、大ヒットを記録。ブックレットには写真家イーサン・ラッセルによる40ページものモッズ族のフォト・ストーリー(下の写真)が収録され、ピートが心に描いた風景をヴィジュアルとして見事に再現していた。

それから6年後、パンクを機に音楽シーンが若返っていたイギリスには、ザ・ジャムやシークレット・アフェアーといった新世代のバンドが登場してモッズ・リヴァイヴァルが起こっていた。そしてザ・フーの『Quadrophenia』(四重人格)を原作にした映画『さらば青春の光』が1979年に公開されると、すぐさまネオ・モッズたちのバイブルとなり、同年後半にはスペシャルズなどのツートーン・スカも登場。ヨーロッパだけでなく東京にもモッズシーンが出現するまでに至った。
モッズ(モダニスト)とは、テッズ(テディボーイ)に代わって1958年のロンドンで生まれた新しい若者風俗のこと。ティーンエイジャーの人口増加や消費力が注目される中、一部の洒落た若者たちがイタリアン・ルックに身を包み、モダンジャズを聴いたり、ヴェスパやランブ..

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5月に去ったレジェンド⑥〜コールマン・ホーキンス/キース・レルフ(ヤードバーズ)ほか

★ダウンロード/ストリーミング時代の色彩別アルバムガイド
「TAP the COLOR」連載第354回〜RED〜
(5月に亡くなった主なミュージシャン)
ロック/ポップ:フランク・シナトラ、ペリー・コモ、サミー・デイヴィス・ジュニア、ジーン・クラーク、キース・レルフ、ポール・バターフィールド、グレッグ・オールマン、グラハム・ボンド、ロビン・ギブ、イアン・カーティス、ロニー・ジェイムス・ディオ、アダム・ヤウク、クリス・コーネル
カントリー/フォーク:エディ・アーノルド、キース・ホイットリー、エディ・ラビット
ブルーズ/R&B/ソウル:サニー・ボーイ・ウィリアムソン、エルモア・ジェイムス、B.B.キング、ロイ・ブラウン、ジョニー・ギター・ワトソン、ドナ・サマー、ドナルド・ダック・ダン
ジャズ:デューク・エリントン、コールマン・ホーキンス、ブルー・ミッチェル、ポール・デズモンド、チェット・ベイカー
その他:ボブ・マーリィ、マレーネ・ディートリヒ

あなたの好きな色は?〜TAP the COLORのバックナンバーはこちらから

コールマン・ホーキンス『The High and Mighty Hawk』(1958)
モダン・テナー・サックスの創始者と言われるコールマン・ホーキンスの音楽人生の転機は、1924年にフレッチャー・ヘンダーソン楽団に参加したところから始まる。結成されたばかりの同楽団にはルイ・アームストロングがいたのだ。ソロイストとして名声を得た彼は、1934年に渡欧。39年に帰国後、ブルーバード。レーベルに録音を開始。この時、有名な「ボディ・アンド・ソウル」を吹き込んだ。本作は..

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5月のナンバーワンアルバム⑧〜プリンス/シネイド・オコナーほか

★ダウンロード/ストリーミング時代の色彩別アルバムガイド
「TAP the COLOR」連載第353回〜BLACK〜
1990年代以降、ビルボードのアルバムチャートは売り上げに基づいた集計方法に変わった。さらにゼロ年代に入るとネット配信が普及してCDやアルバムが売れなくなった。その影響もあって現在のチャートはほぼ毎週のようにナンバーワンが入れ替わり、すぐにトップ10圏外へランクダウンしてしまう(その代わりに年に数枚だけビッグヒットが生まれる)。だが70〜80年代はナンバーワンになること自体が困難で、言い換えればそれらは「時代のサウンドトラック」として確かに機能していた。5月にはどんなアルバムがナンバーワンになったのだろう?

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プリンス『The Very Best of Prince』(2001)
2016年4月21日、57歳でこの世を去ったプリンス。本作はシングルヒットを集めたベスト盤。死後、チャートのトップに立った(1週)。まだ「得体の知れないキワモノ」だった頃の「I Wanna Be Your Lover」から、「この男はいつかどデカイことを成し遂げる」と確信させた「1999」や「Little Red Corvette」。そして世界の頂点を獲った『Purple Rain』からの数曲。その成功に酔わず「同じものは二度と作らない」とリリースし続けたその後の作品。これぞ真のアーティスト。圧巻のセルフ・プロデュースだ。

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シネイド・オコナー『I Do Not Want ..

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1960年代“R&B”ヒットチャート/アーティスト総括(アルバム編)

「TAP the CHART」第159回は、1960年代のR&Bアルバムチャートを総括。
【1960s TOP 20 R&B ALBUMS】
*ランキングはBillboardチャートのデータをもとに作成。なお、集計対象はR&Bアルバムチャートがスタートした1965年から。( )内はリリース年。
❶The Temptations Sing Smokey / The Temptations(1965)

❷Aretha Now / Aretha Franklin(1968)

❸Lady Soul / Aretha Franklin(1968)

❹Puzzle People / The Temptations(1969)

❺The Temptin’ Temptations / The Temptations(1965)

❻I Never Loved a Man the Way I Love You / Aretha Franklin(1967)

❼Cloud Nine / The Temptations(1969)

❽Lou Rawls Live! / Lou Rawls(1966)

❾Greatest Hits / Diana Ross and The Supremes(1967)

❿The In Crowd / Ramsey Lewis Trio(1965)

⓫Hot Buttered Soul / Isaac Hayes(1969)
⓬Greatest Hits / The Temptations(1966)
⓭Soul’ / Lou Rawls(1966)
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B.B.キング〜ブルース・シンガーになるということは、二度黒人になるようなものだ

少年時代のB.B.はある日、お金を貯めようと思いついて、舗道に座ってギターを抱えてゴスペルを歌うことにした。すると、通り掛かった男が立ち止まって聞き入りながらハミングをし始めた。いい兆しだ。気分が良くなったので次々と歌い続けた。
「神のご加護がありますように」
男は上機嫌でそう言った。B.B.も同じ台詞を返してチップを待った。
「なかなかうまいぞ、坊主」
「ありがとうございます」
「その調子で歌い続けるこった」
男は肩をポンと叩いて行ってしまった。他の人々のポケットからも1セントたりとも出てこない。そこでB.B.少年は方針を変更。別の日に世俗の歌を弾いて歌ってみた。歌詞など覚えていないので、自分で適当に作った。ゴスペルの“私の主”が“俺のベイビー”になったくらいだ。
「そういうブルースをどんどんやってくれ」
すると、あの男がまたやって来て言った。
「その調子で歌い続けるこった」
肩をポンと叩くと、今度はポケットから小銭を取り出して、B.B.少年の手に握らせた。
B.B.キング──あらゆるジャンルのミュージシャンと交流・共演して、ブルース音楽を世界中に広げたその功績は余りにも大きい。チョーキングを主体とする泣きのスクィーズ・ギターとゴスペル的な感覚のこぶし回し(メリスマ)でシャウトする歌唱で1950年代にブルースの新時代を築き、以来「モダン・ブルースの顔役」として自らのバンドとバスを従えて、年間平均330回公演という巡業生活を40年以上も続けた。この男から影響を受けたアーティストは数知れず。どんな大スターでもB.B.の前では憧れを抱いた無垢な子供のような瞳になる。
B.B.は19..

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フランク・シナトラが死んだ時、アメリカでは異例の形で哀悼の意が表された

「長年に渡って一番の親友だった彼は、偉大なストーリーテラーにして、とてつもないミュージシャンだった。若い頃にはギャングのようにふるまったこともあって…色々と誤解もされてきたけれど、本当の彼はそうではなかった。彼には優しさと人を想う心があった。」(トニー・ベネット)
「オリジナルで偉大なイタリア人、偉大なアメリカ人、そして素晴らしい役者だった。」(マーティン・スコセッシ)
「深い寂しさをたたえた彼の声は僕に大きな影響を与えた。彼の声は行儀の悪さやセックス、そしてこの世の哀しさに満ちていた。」(ブルース・スプリングスティーン)

1997年の年明け早々、フランク・シナトラは心臓発作を起こしてロサンゼルスのセダース・サイナイ・メディカルセンターに入院することとなった。
その後、一般及びマスコミの前に姿を見せることはなくなり、自宅での治療に専念した。
しかし翌1998年5月14日にビバリー・ヒルズの自宅で寛いでいる時に気分が悪くなり、再び同メディカルセンターに運び込まれ…午後10時50分に臨終を宣告され、82年の人生に幕を降ろした。死因は心臓発作。

“I’m losing.”

エンターテインメント界の帝王“ザ・ヴォイス”と呼ばれた男フランク・シナトラが最期に口にした言葉だったという。
彼が亡くなった翌15日の夜、ラスベガスでは1分間すべてのネオン・照明が消され黙祷が捧げられた。
ニューヨークでは、ヤンキースタジアムでの試合の前に黙祷が捧げられ、エンパイア・ステートビルはライトをブルーに変え哀悼の意を表した。
ロサンゼルスにあるキャピトルレコードの本社には黒いバナーが掲げられた。
1..

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