Home MUSIC

MUSIC

左胸を泣かせるソウル・バラードの世界〜忌野清志郎/オーティス/サム/ジャッキー

★ダウンロード/ストリーミング時代の色彩別アルバムガイド 「TAP the COLOR」連載第81回 日本語による屈指のソウル・バラード「スローバラード」を歌った忌野清志郎。 そんな清志郎が憧れたサザン・ソウルの伝説オーティス・レディング。 オーティスに多大な影響を与えたパイオニアであるサム・クック。 サムと並ぶ偉大なソウル・シンガーのジャッキー・ブラウン。 彼らのソウル・バラードはなぜいつもこんなにも左胸を溶かしてくれるのだろう? RCサクセション『シングル・マン』(1976) 「当時の自分の状態がストレートに出てたアルバム」と忌野清志郎が言ったように、売れないことに加えて契約にも縛られていた頃に録音されたRCの3枚目。リリースは1年延期され、またも売れずに廃盤。しかし1980年、ロックバンドとして新生したRCがブレイクすると、本作の素晴らしさは知れ渡るようになり、再発運動を経て無事にカタログ化された。ジャケットは児童心理学の絵が使われている。「ヒッピーに捧ぐ」「甲州街道はもう秋なのさ」など名曲揃いだが、やはりラストを飾る屈指のソウル・バラード「スローバラード」が心に染みる。僕ら夢を見たのさ。とってもよく似た夢を。 オーティス・レディング『The Otis Redding Story』(1987) そんな忌野清志郎が愛し続け、大きな影響を受けたソウルシンガーのベスト盤。アメリカ南部で生まれてゴスペルやブルースに繋がる音楽、いわゆる「サザン・ソウル/ディープ・ソウル」と呼ばれる世界の旅先案内人的存在がオーティス・レディングだ。雇われていた歌手のレコーディングの余り時間で録..

タイムズ・スクエア〜ワイルド・サイドを歩いたNYの少女たち

タイムズ・スクエア〜ワイルド・サイドを歩いたNYの少女たち

日本(特に東京)の80年代には4つの時代があったと思う。まずは1980〜1982年の「70年代の尻尾」とでもいうべき、前時代の名残や延長ムードがあった時代。そして1983〜1986年の極めてポップな「アーリー・エイティーズ」、1987〜1991年における狂乱の「バブル・エイティーズ」へと流れていき、最後は1992〜1994年頃まで続いた「80年代の尻尾」。 この感覚は、1970年前後生まれの世代なら激しく共感してくれるかもしれない。要するに80年代を多感なティーンエイジャーとして何年過ごしたかどうか。多ければ多いほど、このような世界観を分かち合えるのではないか。 *このあたりについては「東京ポップカルチャー・グラフィティ〜時代と世代の物語」(別サイト)で詳しく触れているので、よろしかったら覗いてみてください。 各時代ではティーン向けの良質な青春映画が作られてきた。これは幼すぎても、大人すぎても感動できないジャンルなので、対象となった特定の世代には思い入れのある人も多い。例えば「アーリー・エイティーズ」では『アウトサイダー』という大名作があったし、ジョン・ヒューズの学園映画も登場した。「バブル・エイティーズ」には『レス・ザン・ゼロ』や『いまを生きる』という静かな傑作があった。 そういった意味で『タイムズ・スクエア』(TIMES SQUARE/1980)は、「70年代の尻尾」における青春映画として記憶されるべき作品だろう。この時期に15歳や16歳だった人なら、きっと「リアルタイムで観た」という人もいると思う。残念ながら書き手は「大人になってから観た」ので正直そんなに入り込めなかった..

左胸を泣かせるソウル・バラードの世界〜忌野清志郎/オーティス/サム/ジャッキー

1902年はスコット・ジョプリンのラグタイムの名曲「ジ・エンターテイナー」が生まれた

「TAP the CHART」146回は、1902年(明治35年)を取り上げます。 【1902年のTOP 10 HITS】 ❶The Arkansas Traveler / Len Spencer ❷Bill Bailey,Won’t You Please Come Home? / Arthur Collins ❸In the Good Old Summer Time / J.W. Myers ❹On a Sunday Afternoon / J.W. Myers ❺Way Down in Old Indiana / J.W. Myers ❻Good Morning Carrie / Bert Williams & George Walker ❼The Mansion of Aching Hearts / Harry MacDonough ❽The Mansion of Aching Hearts / Byron G. Harlan ❾Under the Bamboo Tree / Arthur Collins *この年はNo.1ヒットが9曲のみ。 *参考/Joel Whitburn監修『Pop Memories 1900-1940』。ナンバー1ヒットのうち、1位の獲得週が多かったもの順に掲載(同点の場合、チャートに留まった週が多い方を優先)。 【1902年の主なヒットや音楽的出来事】 ○スコット・ジョプリンが「The Entertainer」を作曲。ラグタイムの名曲として70年後に映画『スティング』のテーマ曲になった。 ○レン・スペンサーの「The Arkansas Tra..

左胸を泣かせるソウル・バラードの世界〜忌野清志郎/オーティス/サム/ジャッキー

1月に去ったレジェンド⑤〜ウィルソン・ピケット/ダニー・ハサウェイほか

★ダウンロード/ストリーミング時代の色彩別アルバムガイド 「TAP the COLOR」連載第319回〜BROWN〜 (1月に亡くなった主なミュージシャン) ロック:カール・パーキンス、フィル・エヴァリー、ソニー・ボノ、アレクシス・コーナー、デヴィッド・ボウイ、フィル・ライノット、モーリス・ギブ(ビー・ジーズ)、ジョン・ウェットン(エイジア)、ポール・カントナー(ジェファーソン・エアプレイン)、テリー・キャス(シカゴ)、ボビー・チャールズ、ニルソン、グレン・フライ、ドロレス・オリオーダン(クランベリーズ) ポップ:パティ・ペイジ、ペギー・リー カントリー/フォーク:ハンク・ウィリアムス、ピート・シーガー、タウンズ・ヴァン・ザント ブルーズ/R&B/ソウル:ハウリン・ウルフ、ジュニア・ウェルズ、ウィリー・ディクソン、ライトニン・ホプキンス、オーティス・クレイ、エイモス・ミルバーン、プロフェッサー・ロングヘア、スリム・ハーポ、ジョニー・オーティス、ジャッキー・ウィルソン、ウィルソン・ピケット、エタ・ジェイムズ、ダニー・ハサウェイ ジャズ:ディジー・ガレスピー、チャールズ・ミンガス、ソニー・クラーク、エロル・ガーナー、ケニー・クラーク、マイケル・ブレッカー その他:マヘリア・ジャクソン、アラン・フリード、フランク・プルゥセル、フランス・ギャル あなたの好きな色は?〜TAP the COLORのバックナンバーはこちらから ウィルソン・ピケット『Wilson Pickett’s Greatest Hits』(1973) 伝説シャウター、ウィルソン・ピケット。ローリング・ストーンズやザ..

左胸を泣かせるソウル・バラードの世界〜忌野清志郎/オーティス/サム/ジャッキー

ビッグ・メイベルを偲んで〜アレサ・フランクリンなど後進のソウルクイーン達にも多大な影響を与えた歌姫の功績と軌跡

1972年1月23日、女性R&B シンガーのビッグ・メイベルがオハイオ州クリーヴランドで糖尿病のため死亡した。 若い時代から薬物問題を抱えつつも…47年間の短くも華やかな歌手人生を全うしたという。 あのジェリー・リー・ルイスが長年に渡って“十八番(おはこ)”にしてきた名曲「Whole Lotta Shakin’ Goin’ On」のオリジナル録音(1955年)をした歌手として知られる彼女は、死後27年経った1999年にグラミー賞を受賞している。 その巨体をいかした迫力のシャウト、そして多彩な表現力と豊かな歌声で、アレサ・フランクリンなど後進のソウルクイーン達にも多大な影響を与えたと言われている。 1925年にテネシー州ジャクスンで生まれた彼女は、10歳の頃に教会で歌っているところをDave Clark’s Memphis Band のバンドリーダー、デイヴ・クラークによって発掘される。 翌1936年、同バンドに加入。 その後、The Sweethearts Of Rhythmというバンドで経験を積み、1944年、彼女は19歳の若さでデッカレコードと契約を結ぶ。 初めてのレコーディングは、クリスティン・チャットマン(Christine Chatman)というバンドを従えてのことだった。 1947年、22歳になった彼女はキングレコードからでソロ名義でレコードを発表。 27歳を迎えた1952年には、CBSレコードの傘下であるOkeh(オーケー )レーベルと契約を結ぶ。 同年、ソングライターのローズ・マリー・マッコイとパートナーを組んだ「Gabbin’ Blues」を発表し、スマッシュ..

左胸を泣かせるソウル・バラードの世界〜忌野清志郎/オーティス/サム/ジャッキー

1月に去ったレジェンド⑥〜ディジー・ガレスピー/プロフェッサー・ロングヘアほか

★ダウンロード/ストリーミング時代の色彩別アルバムガイド 「TAP the COLOR」連載第320回〜RED〜 (1月に亡くなった主なミュージシャン) ロック:カール・パーキンス、フィル・エヴァリー、ソニー・ボノ、アレクシス・コーナー、デヴィッド・ボウイ、フィル・ライノット、モーリス・ギブ(ビー・ジーズ)、ジョン・ウェットン(エイジア)、ポール・カントナー(ジェファーソン・エアプレイン)、テリー・キャス(シカゴ)、ボビー・チャールズ、ニルソン、グレン・フライ、ドロレス・オリオーダン(クランベリーズ) ポップ:パティ・ペイジ、ペギー・リー カントリー/フォーク:ハンク・ウィリアムス、ピート・シーガー、タウンズ・ヴァン・ザント ブルーズ/R&B/ソウル:ハウリン・ウルフ、ジュニア・ウェルズ、ウィリー・ディクソン、ライトニン・ホプキンス、オーティス・クレイ、エイモス・ミルバーン、プロフェッサー・ロングヘア、スリム・ハーポ、ジョニー・オーティス、ジャッキー・ウィルソン、ウィルソン・ピケット、エタ・ジェイムズ、ダニー・ハサウェイ ジャズ:ディジー・ガレスピー、チャールズ・ミンガス、ソニー・クラーク、エロル・ガーナー、ケニー・クラーク、マイケル・ブレッカー その他:マヘリア・ジャクソン、アラン・フリード、フランク・プルゥセル、フランス・ギャル あなたの好きな色は?〜TAP the COLORのバックナンバーはこちらから チャーリー・パーカー&ディジー・ガレスピー『Bird and Diz』(1952) 共にビバップの創造者であり、モダン・ジャズの発展に大きな足跡を残したパーカーとガレ..

左胸を泣かせるソウル・バラードの世界〜忌野清志郎/オーティス/サム/ジャッキー

炎のランナー〜ヴァンゲリスのシンセサイザーと英国トラッドの香り

2012年のロンドン五輪。開会式や閉会式に登場するアーティストの演奏や様々な文化的/歴史的事象での名曲使用に、多くの音楽やロックファンはきっと反応したことだろう。 中でも面白かったのは開会式の祭典で、英国映画『炎のランナー』のタイトル曲がオーケストラによって演奏。そこに印象的なシンセサイザーのあの音が絡んでくる場面。弾いているのはヴァンゲリスではなくMr.ビーンということが分かって歓声が沸く。ビーンが退屈そうにシンセサイザーの鍵盤を押し続けながら、海辺を走る有名なシーンのパロディまであった。 『炎のランナー』(Chariots of Fire/1981)は極めて英国的な映画だった。信念を突き通した人間ドラマを探していたプロデューサー、デヴィッド・プットナムがLAに滞在した時のこと。借りた家に一冊の本が置き去りにされていた。それはオリンピックの歴史が綴られた本で、特にエリック・リデルの記事に心奪われたことから始まる。 映画のオープニングとエンディングは、ゴルフの発祥地と全英オープンでも有名なセント・アンドリューズの海辺。曇り空と静かな波に見守られながら渚を走る若者たちの姿。 現在のような商業主義の五輪とは表情がまったく違った1920年代の五輪。短距離走で金メダルを獲得することを夢見た二人の若者が目の前の試練を克服しながら、やがて実現するまでの姿を描く。その普遍的なテーマと静かな描写はとても味わい深く、ハリウッド映画や民放のTVドラマを見慣れた目には妙な心地よさ、喜びを感じる。 実在した二人のイギリス人青年が描かれるが、一人はエリック・リデルというスコットランド人、もう一人はハロル..

左胸を泣かせるソウル・バラードの世界〜忌野清志郎/オーティス/サム/ジャッキー

桜井和寿に「岡村靖幸Part2になりたい」と思わせたアルバム『家庭教師』 〜J-POPミュージシャンたちに強い影響を与えた岡村靖幸〜

80年代中盤にデビューしたシンガーソングライター、岡村靖幸。 その圧倒的な個性と存在感は、吉田美和、スガシカオ、YUKI、星野源をはじめとした多くのミュージシャンたちからリスペクトされている。 Mr.Childrenの桜井和寿も、その一人だ。 彼はデビュー前に岡村のアルバム『家庭教師』から大きな衝撃を受けたと語る。 「僕は悔しいながらも、このアルバムに打ちのめされた。もはやこの人が天才だろうが、紙一重で背中合わせしたその向こう側の人であろうが、はたまた和製プリンスであろうが、M・ジャクソンであろうが、岡村靖幸さんの音楽を形容するものには何の意味もないことに気づいた」 「それ以降の僕は、この日本におけるミック・ジャガーでもスプリングスティーンでもコステロでもデビット・バーンでもポール・ウェラーでもなく、岡村靖幸Part2になりたいと、悪戦苦闘しながら音楽と愛し合っている」 月刊カドカワ『総力特集 岡村靖幸』より 桜井の言葉の通り、岡村靖幸の音楽には邦楽や洋楽といった枠を超えた、日本語ポップスだからこそ可能な新しさとオリジナリティがあった。 岡村が音楽を作り始めたのは14歳の時だ。 航空会社に勤めていた父親の仕事の関係で、様々な場所で青年期を過ごしていたことから、少し早熟な少年だったという。 高校生になり新潟県で一人暮らしをしたことをきっかけに、ナイトクラブでベーシストを務めながら本格的に楽曲制作を始める。 そして高校卒業後に送ったデモテープが、レコード会社の目に留まり、わずか19歳にして作曲家デビューを果たしたのである。 当時の歌謡曲から海外のファンクまで様々な音楽を聴いていた岡..

左胸を泣かせるソウル・バラードの世界〜忌野清志郎/オーティス/サム/ジャッキー

ロード・トゥ・メンフィス〜伝説のブルーズマンたちの帰郷

2003年。アメリカでは「BLUES生誕100年」と称して、CD・書籍・番組・ラジオ・コンサートといったメディアミックスを通じて“魂の音楽”を伝えるプロジェクトが展開された。中でもマーティン・スコセッシ監督が総指揮した音楽ドキュメンタリー『THE BLUES』は、総勢7名の映画監督が様々な角度から“魂の音楽”をフィルムに収めて大きな話題を呼んだ。 今回紹介するのは『ロード・トゥ・メンフィス』(The Road To Memphis/リチャード・ピアース監督)。テネシー州メンフィスのビール・ストリートを舞台にしたブルーズマンたちの物語だ。 ビール・ストリートとは、1920〜50年代にかけてストリート・ライヴや劇場でのショーが盛んだったメンフィスの黒人商業地区のメインストリートの名称。現在ではすっかり観光地化されて全盛期の面影はほとんどなくなったそうだが、それでもB.B.キングのクラブをはじめ、ブルーズ発祥の町として多くの音楽ファンを魅了し続けている。 映画はW・C・ハンディ賞での記念ステージを披露するために、この地が育んだブルーズマンたちが各地から帰郷してくる姿を描く。伝説の顔ぶれが同じフィルムに収まっている事実も凄いが、ロードムービー風の追いかけ方も秀逸な傑作となった。 駆け出しの頃のB.B.キングもこの通りに立ってブルーズを歌っていた一人。地元のラジオ局WDIAにDJ兼ミュージシャンとしての職を得ると、「ビール・ストリート・ブルーズ・ボーイ」というニックネームで呼ばれた。長いので「ブルーズ・ボーイ」となり、「B.B.」になった。綿花畑を抜け出した“音楽畑”での新しい人生がスタ..

左胸を泣かせるソウル・バラードの世界〜忌野清志郎/オーティス/サム/ジャッキー

ポール・スタンレー少年時代①〜ベートーヴェンの衝撃、ロックロールの洗礼、初めて買ったレコード

1952年1月20日、彼はニューヨーク市内の病院で産声をあげた。 彼が最初に暮らしたのは、マンハッタンの北のはずれ、西211丁目とブロードウェイが交差する辺りにあったアパートだった。 「俺は小耳症と呼ばれる形成不全を伴って生まれてきた。外耳の軟骨の部分がきちんと形成されておらず、耳のあるべき場所に潰れたようになった軟骨部分だけがあるような状態だった。俺の場合は外耳道が閉塞してて、右耳の聴力がなかった。だから俺は子供の頃、音が人の声がどちらの方向から聞こえているのかがわからなくて、会話も上手くいかず…本能的に人と交わる状況を避けるようになっていたんだ。」 彼が幼い頃、父親はオフィス家具のセールスマンをしていたという。 母親は看護師や、特別支援学校の教師の助手などをして家計を支えていた。 母方の一族は、ナチスの台頭に伴ってベルリンからアムステルダムに逃げてきたユダヤ系の家系だった。 父親の両親もまた、ポーランドからニューヨークへ移ってきた移民だった。 「俺の両親はお互いに対してなんらいい影響を与えてなかった。父親が激しく怒鳴り、数日間は母親が口をきかなくなる。そんな光景が日常だったよ。だから、家の中に温もりを感じることはあまりなかったんだ。」 彼は家の中でも外でも、一人ぼっちでいることが多かったという。 心のよりどころもなく、言葉にできない不安を抱きながら毎日を過ごしていた。 ある日彼は、どんなに辛くても希望を持てる “避難所”を発見した。 彼を救ったもの…それは音楽だった。 「音楽は、両親が俺に与えてくれた素晴らしい贈り物だった。そのことに関しては、二人に対して永遠に感..

左胸を泣かせるソウル・バラードの世界〜忌野清志郎/オーティス/サム/ジャッキー

ティファニーで朝食を〜名曲「ムーン・リバー」を歌ったオードリー・ヘプバーン主演作

その印象的なタイトル、そしてオードリー・ヘプバーン主演作として知られ、映画ファンをはじめ今も多くの人々から愛され続ける『ティファニーで朝食を』(Breakfast at Tiffany’s/1961)。 ヒロインのホリー役には当初セクシーで色気漂うマリリン・モンローという話もあったが、娼婦という設定に女優生命に傷がつくという理由で断られてしまう。そこで今度はオードリーにこの役がまわってくるのだが、彼女はモンローとは真逆の可愛らしく気品がある妖精のようなイメージ。 こちらも当然のように代理人からは難色を示されるが、1958年に発表されたトルーマン・カポーティの原作小説を映画用にアレンジした独自のストーリーが魅力を放ったこともあり、結果的に30歳代に突入したオードリーのキャリアを磨くことに成功した。 この映画の名シーンと言えば、何よりもあの冒頭の光景を思い浮かべる人が多い(上画像)。早朝、NY5番街のティファニー本店前でコーヒー片手にクロワッサンを頬張るオードリーの姿に、ヘンリー・マンシーニの甘美なメロディ「ムーン・リバー」が重なるあのシーン。 長い映画史に残る秀逸なオープニングだ。これだけで『ティファニーで朝食を』はロマンチック・コメディのクラシックに到達したと言っても過言ではない(ちなみにこのシーンは撮影初日に撮られた)。舗道に立つのは、オードリー・ヘプバーンでなければならなかった。 ミッキー・ルーニー演じる日系人の滑稽な描写が人種差別的だとして物議を醸し出した時期もあったが、ティファニーでわずか10ドルの買い物をしようとするところ、NY近辺の840匹から選ばれた“名前のないネ..

左胸を泣かせるソウル・バラードの世界〜忌野清志郎/オーティス/サム/ジャッキー

街の空気を吸い込んだ名盤たち~尾崎豊/ブルーハーツ/スカパラ/グレイト3

★ダウンロード/ストリーミング時代の色彩別アルバムガイド 「TAP the COLOR」連載第79回 TV番組やCMとタイアップするような念入りなマーケティングで作られた最大公約数の音楽やアーティストより、もっと同世代のためのリアルな“心の音楽”を届けてくれることをずっと待ち望んでいたあの頃。僕たちはそんな音楽を夕暮れ時の街を歩きながら夢中になって聴いていた。それができたのは尾崎もブルーハーツもスカパラもグレイト3もみんな、僕たちと同じ街や通りをどうしようもない惨めな気持ちで歩いたことがあったからだ。 尾崎豊『十七歳の地図』(1983) 渋谷の有名付属校に通う高校生だった尾崎が、都会での青春の日々の中で育んだどうしようもない愛や哀しみや葛藤を、退学後に自らの若い心の地図に描いた不滅のデビュー作。「15の夜」「17歳の地図」「I Love You」「Oh My Little Girl」などを収録。学校、放課後、煙草、パーティ、夜遊び、喧嘩、恋といったシーンは当時の一部の中高生たちを魅了し、まだネットもソーシャルもない時代においてクチコミだけでその名が広がっていった。次作『回帰線』とシングル「卒業」がリリースされる頃には、既に尾崎はカリスマだった。 iTunes Amazon ザ・ブルーハーツ『THE BLUE HEARTS』(1987) 1980年代前半、東京のモッズシーンで人気だった2つのビートバンド、ザ・ブレイカーズの真島昌利とザ・コーツの甲本ヒロトが結成したザ・ブルーハーツ。彼らが息を吸っていた新宿・渋谷・原宿・下北沢といった東京の街の光景と青春の叫びがすべて詰ま..

左胸を泣かせるソウル・バラードの世界〜忌野清志郎/オーティス/サム/ジャッキー

カール・パーキンス〜男の美学が生んだ名曲

ジョニー・キャッシュとカール・パーキンスは、ともに55年にサン・レコードからデビューする。キャッシュがすぐに「Cry Cry Cry」のヒットを出したのに対して、パーキンスは当初ヒットに恵まれなかった。舞台ではエルヴィスより受けるときもあったパーキンスをキャッシュが褒め称えると、彼はこぼした。 「でも、あいつにはヒット・レコードがあって、俺にはないんだ」 そこで、ある晩にキャッシュは親友にヒットしそうな曲のアイデアを差し出す。 「青いスエードの靴についての曲はどうだい?」 パーキンスはメンフィスやジャクソンの店でそういった靴を見たことはあったが、靴の歌なんて愚かしいと思った。すると、キャッシュは空軍でドイツに駐屯していたときの話を始めた。 「仲の良いC・V・ホワイトという黒人の航空兵がいた。おしゃれな奴でね。外出許可の出た日には上から下までばっちりと決めるんだ。ある時に俺が褒めたら、“俺の青いスエードの靴を踏むんじゃないぜ”と言うんだ。それは軍人用の黒い靴なのに。いや、今晩だけはこれは青いスエードだ。だから踏むんじゃないぞ“ってね」 キャッシュはその話から曲を作れると思ったのだが、残念ながらパーキンスはピンとこなかった。 数週間後、パーキンスは着飾った学生でいっぱいのクラブで演奏していた。場内は大盛り上がり。そんなとき、楽しそうに踊っていた美男美女のカップルの男が声を上げた。 「おい、俺の靴を踏むなよ」 「ごめん」と相手の女が謝る。 パーキンスが足元を見ると、彼が履いていたのはまさに青いスエードの靴だった。演奏を続けながら、彼らの様子を窺っていると、その男は靴を踏まれたことをず..

左胸を泣かせるソウル・バラードの世界〜忌野清志郎/オーティス/サム/ジャッキー

アンソニー・キーディス27歳〜ゴールドディスクの獲得、長期ツアー中にハマった“大食いゲーム”とセックスパーティー

1989年8月、レッド・ホット・チリ・ペッパーズは新メンバーにジョン・フルシアンテ、チャド・スミスを迎え4thアルバム『Mother’s Milk(母乳)』をリリースした。 同作は、バンドにとって大きなステップとなり、彼らはこの頃から大規模なツアーを行うようになる。 バンドのフロントマンでもあったアンソニー・キーディスは、その年の秋に27歳を迎える。 「アルバムをリリースした翌月から、俺達は約1年間にも及ぶツアーに出たんだ。移動手段も車もそれまでのバンとは違い、本格的なツアーバスにグレードアップしたよ。ツアーには多くのスタッフが同行するようになった。」 彼の生い立ちをさかのぼると…アメリカにはびこる“ドラッグ社会”の闇が見えてくる。 1962年11月1日、彼はミシガン州グランドラピッズで生まれる。 父親はリトアニア系の移民、母はギリシア、オランダ、イングランド、アイルランド、フランス、モヒカン族の混血だったという。 3歳の頃に両親が離婚。 彼には複数の異母(父)姉妹・兄弟がいる。 11歳まで母親と暮らし、その後、父親と共にロサンゼルスへと移住。 彼の父親は麻薬常用者だったため、絶えずドラッグを使用していたという。 生活環境には常にドラッグがあり、最初のドラッグも父親から得たものだった。 そんな彼が、27歳を迎えた頃に行ったこのツアーで、なんとドラッグと手を切ったというのだ。 「当時、コカインもアルコールもやめてたから、俺にはそれに代わる新たな娯楽が必要だった。それで退屈をまぎらわすために考えついたのが“ザ・ジョブ”という遊びだった。この時は各地の大学を数多く回ってた。会場..

左胸を泣かせるソウル・バラードの世界〜忌野清志郎/オーティス/サム/ジャッキー

小椋佳のファースト・アルバム『青春―砂漠の少年―』が1971 年に世に出るまで

1966年の春に東京大学を卒業した神田紘爾(かんだこうじ)は、日本勧業銀行(元・第一勧業銀行、現・みずほ銀行)に就職した。 それからしばらく時が流れて、学生時代にしばらく師事する形になったアングラ劇団「天井桟敷」の主宰者、作家で詩人の寺山修司から電話がかかってきたのは1969年のことだ。 「青春群像を描くLP レコードを作っている最中なのだが、君も来て参加しないか」 銀行マンになっていた神田だったが、その誘いに応じて天井桟敷の自主制作アルバムには歌で参加することにした。 内容は寺山修司作詞、和田誠作曲による作品を、10 名ほどの若者が歌うというものだった。、 深く考えることもなく3 曲を歌いました。 『初恋地獄篇』とタイトルがついて発売されたアルバムは、あまり売れるとも思えないアングラLP でしたが、この時に初めて「小椋佳」という名前が使われたのです。 それが世に出てしばらくたった頃、ポリドールのディレクターと名乗る人物が、銀座支店で働いていた神田を訪ねてきた。近くの喫茶店で会うことになったその若い男性は、多賀英典という名刺を出して自己紹介し、「探したよ。君が小椋佳だね」と切り出してきた。 多賀は『初恋地獄篇』で小椋佳の歌声を聴いて、新人歌手として売りだせる才能だと感じたので伝をたどって、本人を訪ねてきたのである。 しかしなんとなく想定していた美少年タイプではなく、銀行員で既に所帯を持っている25 歳、おまけに容姿端麗とは言い難いルックスだった。 したがって多賀の中では会った瞬間、新人歌手として売り出すという計画は消えたようだ。 ところが話をしていくうちにお互いに気持ち..

左胸を泣かせるソウル・バラードの世界〜忌野清志郎/オーティス/サム/ジャッキー

レッド、ホワイト&ブルース〜アメリカで葬られたBLUESが60年代にイギリスで蘇った

2003年。アメリカでは「BLUES生誕100年」と称して、CD・書籍・番組・ラジオ・コンサートといったメディアミックスを通じて“魂の音楽”を伝えるプロジェクトが展開された。中でもマーティン・スコセッシ監督が総指揮した音楽ドキュメンタリー『THE BLUES』は、総勢7名の映画監督が様々な角度から“魂の音楽”をフィルムに収めて大きな話題を呼んだ。 『フィール・ライク・ゴーイング・ホーム』(Feel Like Going Home/マーティン・スコセッシ監督) 『ソウル・オブ・マン』(The Soul Of A Man/ヴィム・ヴェンダーズ監督) 『ロード・トゥ・メンフィス』(The Road To Memphis/リチャード・ピアース監督) 『デビルズ・ファイヤー』(Warming By The Devil’s Fire/チャールズ・バーネット監督) 『ゴッドファーザー&サン』(The Godfathers And Sons/マーク・レヴィン監督) 『レッド、ホワイト&ブルース』(Red, White & Blues/マイク・フィギス監督) 『ピアノ・ブルース』(Piano Blues/クリント・イーストウッド監督) 今回紹介するのは『レッド、ホワイト&ブルース』。BLUESに取り憑かれた英国ミュージシャンたちの熱い演奏とインタビュー、貴重な映像などが綴られていく。 ローリング・ストーンズが念願のアメリカの土を踏んだ時、「マディ・ウォーターズがどれだけ凄いか」を観衆に訴えたにも関わらず、アメリカ人たちは誰一人として彼の名を知らなかったというエピソードが出てくるが、もしも英国人た..

左胸を泣かせるソウル・バラードの世界〜忌野清志郎/オーティス/サム/ジャッキー

結成から62年で引退したデューク・エイセスの代表曲「おさななじみ」は最初から歌詞が10番まであった作品

デューク・エイセスは1955年に結成されたジャズのヴォーカル・グループで、日本の音楽史において最長となる活動記録を更新してきた。 そんな彼らが62年にわたって続けた音楽活動を終えて、静かに幕を下ろしたのは2017年12月31日のことだった。 その10日前、東京都港区のメルパルクホール東京で開催された最後の公演「さよならコンサート ~ありがとう、62年に感謝~」が終了した後で、リーダーの谷道夫(83歳)はメディア向けの取材に応じてこう語っていた。 62年やってこられたのは皆様のおかげ、感謝の気持ちでいっぱいです。でも『年を取ったね』と言われるのはいいけど、『落ちたね』は自分で許せない。とにかくカルテットの魅力を伝えていきたいという思いでやってきて、4人でやれることはやり切ったと思う。 半世紀を超える活動の歴史を振り返る形で行われたコンサートは、1700曲以上を誇るレパートリーの中からジャズとゴスペルをメインに、彼ら原点ともいえるアメリカの洗練されたポップスが第一部だった。 「慕情」で始まったオープニングに続いて、「もともとはジャズ、黒人霊歌をベースにスタートしました」と谷が語ったとおり、デュークのレパートリー第1号となった黒人霊歌「ドライ・ボーンズ」が披露された、 そして「ジェリコの戦い」「キャラバン」「In The Evening By Moonlight」に次いで、「リトル・ダーリン」~「16トンズ」~「ラヴ・ミー・テンダー」~「オンリー・ユー」~「ミスター・ロンリー」~「ミスター・ベースマン」~「テネシー・ワルツ」~「レッツ・シング・ア・メロディー」と、デュークの原点..

左胸を泣かせるソウル・バラードの世界〜忌野清志郎/オーティス/サム/ジャッキー

ブライアン・ウィルソンについての歌だと憶測された「歌の贈りもの」の真相

1976年1月14日。 バリー・マニロウが歌う「歌の贈りもの」がビルボード・チャートでナンバーワンに輝いた。後にグラミー賞最優秀楽曲賞を受賞することになるこの曲は、バート・バカラックの再来とも言われたバリー自身が書いたものではない。作詞作曲は、ビーチ・ボーイズのメンバーだったブルース・ジョンストンである。 ブルース・ジョンストンは、1942年、イリノイ州ピオリアで生まれている。中西部の平均的な都市として知られるピオリアは、市場調査の対象となることでも知られている。 この平均的な中西部の街で生まれたブルースがビーチ・ボーイズのメンバーとなり、今でもサーフィンを楽しむようになるためには、運命のいたずらがあった。ブルースは孤児だったのである。 養子としてブルースを引き取ったのは、ドラッグストアの重役だった。そしてブルースは彼が住んでいたハリウッドに移り住むことになるのだ。 10代で西海岸のミュージック・シーンに登場することになるブルースは、20歳の時、最初のソロ・アルバムを発表している。そのタイトルが「サーファーズ・パジャマ・パーティ」。頭からつま先まで、全身、西海岸の青年となっていた。 ブルースがビーチ・ボーイズに参加したのは1965年のことである。 ♪ 私は永遠を生きていた そして最初の歌を書いた 言葉と旋律を結びつけたのだ 私は音楽 私は歌を書く ♪ 「歌の贈りもの」を聞いて誰もが、ビーチ・ボーイズのことを考えた。 ♪ 私は世界中が歌う歌を書く 私は愛と特別なことを歌にする ♪  中でも、ブルースがビーチ・ボーイズに参加した当時、隠遁生活を送っていたバンドの音楽的支柱、..

左胸を泣かせるソウル・バラードの世界〜忌野清志郎/オーティス/サム/ジャッキー

パラダイス・アレイ〜スタローンが主題歌を歌ったトム・ウェイツの俳優デビュー作

民放のロードショー番組にまだ色気や体臭が漂っていた1980年前後。日本の家族が今よりもまだ健全だった頃の話。 リビングで父親が黙って映画を観ている姿が好きだった。自分の部屋にテレビなど置いてもらえない息子は、何も言わず隣に座って画面を眺める。会話は少ない。家で一緒に映画を観ているだけなのに、夜9時から11時前までのひとときがなぜか心地良かった。終わるとテレビを消して、「おやすみ」と言ってゆっくりと寝室へ上がっていく父親。そんな姿を何度見たことだろう。 あれから40年近くが経った。あの頃のロードショー番組で放映された数々の70〜80年代産の映画は、今ではいつでもどこでも好きな時に気軽に観ることができる。日本の子供たちはテレビよりスマホの画面と向き合う。そしてリビングから父親たちの姿が消えた……。 こんなことを考えていると、あの頃の映画が蘇ってくる。それは誰もが知るヒット作や有名作ではなく、どちらかというとB級映画。少なくともネット環境が整うまでは一般的には忘れ去られていた映画。中でも『スラップ・ショット』(1977)や『カリフォルニア・ドールズ』(1981)はそんな筆頭格。そして今回紹介する『パラダイス・アレイ』(Paradise Alley/1978)も、“テレビを眺める息子たち”に強い印象を残してくれた映画だった。 脚本・監督・主演は、『ロッキー』(1976)の成功でアメリカン・ドリームを掴み取ったシルヴェスター・スタローン。これが初監督作。ニューヨークのスラム街で過ごした自らの日々を取り入れた内容で、現状打破の世界を再展開。おまけにビル・コンティによる主題歌まで歌った。オー..

左胸を泣かせるソウル・バラードの世界〜忌野清志郎/オーティス/サム/ジャッキー

1月のナンバーワンアルバム⑧〜マイケル・ジャクソン/テイラー・スウィフトほか

★ダウンロード/ストリーミング時代の色彩別アルバムガイド 「TAP the COLOR」連載第317回〜GOLD〜 1990年代以降、ビルボードのアルバムチャートは売り上げに基づいた集計方法に変わった。さらにゼロ年代に入るとネット配信が普及してCDやアルバムが売れなくなった。その影響もあって現在のチャートはほぼ毎週のようにナンバーワンが入れ替わり、すぐにトップ10圏外へランクダウンしてしまう(その代わりに年に数枚だけビッグヒットが生まれる)。だが70〜80年代はナンバーワンになること自体が困難で、言い換えればそれらは「時代のサウンドトラック」として確かに機能していた。1月にはどんなアルバムがナンバーワンになったのだろう? あなたの好きな色は?〜TAP the COLORのバックナンバーはこちらから マイケル・ジャクソン『Dangerous』(1991) クインシー・ジョーンズとの3作(『Off the Wall』『Thriller』『Bad』)から次なる世界へ。マイケルがテディ・ライリーを共同プロデュースに迎えて当時最先端のダンス・ミュージック(ニュージャックスウィング)を展開したヒット作(4週1位)。ナンバーワン・ヒットの「Black or White」ではガンズ・アンド・ローゼズのスラッシュのギターが聴ける。最新技術を駆使したMVも話題に。なお、本作をトップの座から蹴落としたのがニルヴァーナの『Nevermind』だった。 iTunes Amazon テイラー・スウィフト『Fearless』(2008) カントリー音楽が大好きな女子。ソーシャルメディアを使いこな..

左胸を泣かせるソウル・バラードの世界〜忌野清志郎/オーティス/サム/ジャッキー

1月に去ったレジェンド④〜アレクシス・コーナー/デヴィッド・ボウイほか

★ダウンロード/ストリーミング時代の色彩別アルバムガイド 「TAP the COLOR」連載第318回〜BLUE〜 (12月に亡くなった主なミュージシャン) ロック:カール・パーキンス、フィル・エヴァリー、ソニー・ボノ、アレクシス・コーナー、デヴィッド・ボウイ、フィル・ライノット、モーリス・ギブ(ビー・ジーズ)、ジョン・ウェットン(エイジア)、ポール・カントナー(ジェファーソン・エアプレイン)、テリー・キャス(シカゴ)、ボビー・チャールズ、ニルソン、グレン・フライ、ドロレス・オリオーダン(クランベリーズ) ポップ:パティ・ペイジ、ペギー・リー カントリー/フォーク:ハンク・ウィリアムス、ピート・シーガー、タウンズ・ヴァン・ザント ブルーズ/R&B/ソウル:ハウリン・ウルフ、ジュニア・ウェルズ、ウィリー・ディクソン、ライトニン・ホプキンス、オーティス・クレイ、エイモス・ミルバーン、プロフェッサー・ロングヘア、スリム・ハーポ、ジョニー・オーティス、ジャッキー・ウィルソン、ウィルソン・ピケット、エタ・ジェイムズ、ダニー・ハサウェイ ジャズ:ディジー・ガレスピー、チャールズ・ミンガス、ソニー・クラーク、エロル・ガーナー、ケニー・クラーク、マイケル・ブレッカー その他:マヘリア・ジャクソン、アラン・フリード、フランク・プルゥセル、フランス・ギャル あなたの好きな色は?〜TAP the COLORのバックナンバーはこちらから カール・パーキンス『Dance Album』(1957) サン・ロカビリーの黄金時代は、このカール・パーキンスの「Blue Suede Shoes」の大ヒットから..

左胸を泣かせるソウル・バラードの世界〜忌野清志郎/オーティス/サム/ジャッキー

1903年、ミシシッピ州の田舎町の駅のホームでW.C.ハンディが“ブルーズを目撃”した

「TAP the CHART」145回は、1903年(明治36年)を取り上げます。 【1903年のTOP 10 HITS】 ❶In the Good Old Summer Time / Haydn Quartet ❷Down Where the Wurzburger Flows / Arthur Collins & Byron G. Harlan ❸Come Down, Ma Evening Star / Mina Hickman ❹Hurrah for Baffin’s Bay / Arthur Collins & Byron G. Harlan ❺Any Rags? / Arthur Collins ❻In the Good Old Summer Time / Sousa’s Band ❼In the Sweet Bye and Bye / Harry MacDonough & John Bieling ❽Hiawatha / Harry MacDonough ❾Come Down, Ma Evening Star / Henry Burr ❿Uncle Josh on an Automobile / Cal Stewart *参考/Joel Whitburn監修『Pop Memories 1900-1940』。ナンバー1ヒットのうち、1位の獲得週が多かったもの順に掲載(同点の場合、チャートに留まった週が多い方を優先)。 【1903年の主なヒットや音楽的出来事】 ○ミシシッピ州のスモールタウン、タトワイラー。マハラズ・ミンストレルズの黒人バンドリーダーであるW.C.ハンディ..

左胸を泣かせるソウル・バラードの世界〜忌野清志郎/オーティス/サム/ジャッキー

中村佳穂──底知れぬ才気に満ちあふれた、新鋭シンガー・ソングライターの傑作アルバム

有名に 繰り上がる頃には 誰かの悪者になるのかな。 いつか見たその先を覗いたよ、食う寝る いい日に生きて、あの感じになろうね 頑張りが認められる頃には 誰かと比べられているのかな。 心の灯があなたを目指す、食う寝る (「You may they」より) 吸い込まれるようなシンセのリフ、独特の言語感覚のリリック、どこかプリミティブでイノセントな風合いを残した歌声が、一発で耳を捉える。そこに多重録音のコーラスが折り重なったかと思えば、カオッティックなビートが乱れ飛び、心は激しく掻き毟られる。しかしその直後、ビートは一転して四つ打ちを刻み始めると、その先は自在に転がる声と音の世界になすがままだ──アルバム『AINOU』の冒頭を飾る「You may they」の、めくるめく世界に触れるだけで、このアーティストの非凡さは十二分に伝わることだろう。 1992年生まれ。京都在住のシンガー・ソングライター、中村佳穂。幼い頃から歌うことと絵を描くことが大好きだったという彼女は、京都精華大学に入学した20歳の頃から本格的に音楽活動を開始。ソロ、デュオ、バンドとフレキシブルな演奏形態でライブを展開する中村佳穂は、「各地で出会った人たちをRPG方式でメンバーに誘ってはライブを繰り広げています」と自ら述べているが、そうしてセッションを重ねた音楽家たちのエッセンスを吸収していくごとに、まさにRPGの主人公のように成長していく。 岸田繁(くるり)や高野寛といったミュージシャンから、その才能に早くから賞賛が寄せれていた中村佳穂は、卒業制作的な感覚で作ったというアルバム『リピー塔にたつ』を2016年7月に発表..

左胸を泣かせるソウル・バラードの世界〜忌野清志郎/オーティス/サム/ジャッキー

浅川マキをフリー・インプロヴィゼーションの世界に引きずり込んだ山下洋輔の思いがけない行動

1969年にシングル「夜が明けたら」を発表して以降、日本のアンダーグラウンド・シーンを代表するアーティストの一人として活動をしてきた浅川マキ。 ブルースやジャズ、ゴスペルといった音楽をベースに歌われる独特の世界観は、同業のミュージシャンをはじめとして多くの人たちを惹きつけた。 そんな彼女がフリー・インプロヴィゼーション(即興演奏)の世界に踏み込んだのは1970年代終わりのことだ。 きっかけはミュージシャン仲間でフリー・ジャズのアルトサックス奏者、阿部薫が1978年の9月9日に亡くなったことだった。 浅川マキは自著『幻の男たち』の中で、晩年の思い出を語っている。 それは初台にあるライヴハウス、騒(GAYA)で阿部薫のライブを観たときのことだった。 演奏が終わって観客が帰ると、店内にはお店の人以外に阿部薫と浅川マキの2人だけとなった。 阿部は浅川をピアノのそばに呼ぶと、一番好きな曲だと言ってスタンダード・ナンバーの「恋人よ我に帰れ」を弾きはじめた。 ステージで壮絶なサックスを吹いている彼の姿を思えば、それは意外な選曲だった。 よほどその姿が印象的だったのだろう、阿部薫が亡くなると浅川はこの出来事を「あの男がピアノを弾いた」という唄にした。 ……ただ阿部薫さんのことであっても、阿部薫に捧げるとか、そういう形では作りたくない、そういう発想もない、阿部薫という個人名は入ってないし…… レコーディングに呼ばれたのはピアノの山下洋輔、ベースの川端民生、トランペットの近藤等則といった日本を代表するジャズ・ミュージシャンたちだった。 最初は新宿のライブハウス、ピットインで録音し、その後スタ..

左胸を泣かせるソウル・バラードの世界〜忌野清志郎/オーティス/サム/ジャッキー

観客の熱狂にしびれるダニー・ハサウェイのライヴ~「きみの友だちーYou’ve Got a Friend」

ライヴ・アルバムの楽しみは、スタジオ・アルバムと違って観客の歓声やその場の空気、温度までが中に閉じ込められたレコード(記録)を、部屋の中に居ながらにして味わえるところにある。 名盤と呼ばれるライヴ・アルバムが数ある中で、このダニー・ハサウェイの『ライヴ』もその1枚と言っていいだろう。 ダニーは幼い頃にゴスペル・シンガーであった祖母に連れられて教会へ通い、3歳ですでに祖母のレコーディングに参加したという。 幼い頃からゴスペル・シンガーとして、また優れたピアニストとして、“音楽神童”の名を欲しいまましていた。ハワード大学に進学してからは、クラッシック音楽と音楽理論を学びながら、ジャズにも傾倒していく。 しかし大学在学時からスタジオ・ミュージシャンとして活動し、その仕事が急増したため大学を途中で辞めなければならなくなった。 その後、アトランティック・レコード傘下のアトコ・レーベルと契約して2枚のアルバムを出したが、あまりヒットはしなかった。 ところがミュージシャンの間では評判がよく、スティーヴィ・ワンダーは何十枚も買い込んでアルバムを友達に配り回っていたという話もあるくらいだ。 3枚目のアルバムをライヴ・アルバムにしたらどうかと提案したのは、アトランティックのプロデューサー、ジェリー・ウェクスラーだった。 そして1971年にロサンゼルスのハリウッドにあるザ・トルバドゥールと、ニューヨークのビター・エンドの2カ所でライブ・レコーディングが行われた。 録音を担当したアトランティックのプロデューサーのアリフ・マーディンは、ダニーのライヴに口コミで集まって来た観客のほとんどが、教養のある洗練..

左胸を泣かせるソウル・バラードの世界〜忌野清志郎/オーティス/サム/ジャッキー

ボサノヴァを世界中に広めた『ゲッツ/ジルベルト』のライブが行われたカーネギーホールの客席にいた中村八大

作曲家の中村八大が家族とともにニューヨークへと移住したのは、1964年の8月が終わろうという頃だった。 坂本九が歌った「上を向いて歩こう」が「SUKIYAKI」のタイトルで全米1位を記録し、世界的なヒットとなって押しも押されぬ人気作曲家となった八大だが、あまりにも仕事に追われる日々から逃れるように、日本を離れて家族とともに1年間の充電期間を作ったのである。 それからはエンターテイメントの本場でコンサートホールやジャズクラブ、ライブハウスに通いつめて音楽三昧の日々を送りはじめる。 なかでも世界有数のコンサート会場、カーネギーホールへは毎週のように足を運んだ。 10月9日はジャズ・ミュージシャンのスタン・ゲッツと、ボサノヴァの創始者とされる作曲家のアントニオ・カルロス・ジョビン(愛称トム・ジョビン)と、歌手のジョアン・ジルベルトによるコンサートだった。 1950年代末にブラジルで生まれた「ボサ・ノヴァ(新しい波)」は、60年代になってから海を超えてニューヨークの音楽ファンの間に広まり始めた。 伝説のピアニスト、セロニアス・モンクはボサノヴァについて、「ニューヨークのインテリたちの音楽、ジャズに欠けていたものをもたらした」と語っている。 ジャズ・ミュージシャンたちにとって、ボサノヴァは新鮮かつ想像力を刺激するものだった。 最初にブラジルからミュージシャンを招いて、ニューヨークでボサノヴァ・コンサートが催されたのは、1962年11月21日のことだ。 その夜はジョアンとトム・ジョビンのほか、セルジオ・メンデス、カルロス・リラなど、ブラジルを代表するミュージシャンが集まった。 本物のボサ..

左胸を泣かせるソウル・バラードの世界〜忌野清志郎/オーティス/サム/ジャッキー

20歳の松本隆が書いた青春の風景~はっぴいえんど「春よ来い」

はっぴいえんどが結成されたのは1969年、今年で結成から50年が経つということになる。 彼らのファースト・アルバム『はっぴいえんど』のレコーディングは、1970年の年明け頃から4月にかけて行われた。 この時、細野晴臣22歳、大瀧詠一21歳、松本隆20歳、そして鈴木茂はわずか18歳だった。 1960年代の終わり頃から、日本のアンダーグラウンドの音楽シーンは、日本語で歌うフォーク派か、英語で歌うロック派かに大きく分かれていた。 フォーク派は、反体制のメッセージを社会に伝えるということにおいて、楽曲はアメリカのカントリーなどから影響を受けながらも、日本語の歌詞で歌うことに意味があると考えた。 一方のロック派には、当時のGS(グループサウンズ)ブームのメジャー路線に背を向け、ロックに日本語は乗らないとの考えで、あくまでも英語のロックンロールというスタイルにこだわりがあった。 バッファロー・スプリングフィールドや、モビー・グレイプなどの音楽を志向していた細野を始め、はっぴいえんどの彼らも、当初はインターナショナルになるには英語で歌うべきだという考えが強くあった。しかし、「英語じゃダメだ」と言い出したのは松本で、毎晩のようにこのことで討論していたそうだ。 しかし、最終的には松本が理屈で言い負かしたのだという。 (まだ)日本で何でもないのに、どうやってインターナショナルになれるんだって気持ちはぼくには強くて・・・。(松本隆) そして、アルバム『はっぴいえんど』では、大滝曰く「バッファローの音と日本語の融合」を目指すこととなった。 はじめの仕事は日本語はリズムに乗らないという定説をくつがえすこ..

左胸を泣かせるソウル・バラードの世界〜忌野清志郎/オーティス/サム/ジャッキー

六・八コンビによる新しい日本の歌と音楽が作詞家になる阿久悠に与えた衝撃

日本の音楽史に残るエポックメイキングな歌の「黒い花びら」は、1959年7月に公開されたロカビリー映画『青春を賭けろ』の挿入曲で、新人の水原弘が歌って第1回日本レコード大賞に選ばれた。 これを作曲した中村八大は1曲の歌の中にジャズとシャンソン、さらにはロックのテイストを持ち込むことにも成功した。 「黒い花びら」は日本の歌謡曲の歴史において、新たな時代を切り拓くという役割を果たしたのだった。 この曲が誕生した年に明治大学を卒業した阿久悠は広告代理店で働き始めていたが、その当時に感じていた永六輔の作詞についてこう語っていた。 ぼくは本当の戦後っ子というか、戦後に生まれたという意味じゃなくて、戦後に目覚めた年代ですから、一気に音楽を享受した。歌そのものに非常に興味を持って聴いていたんです。 ところが、その歌を自分が書こうとか、自分が書くべきものだとは全然思ったことがなかったんですよ。小説家になりたいなとか、シナリオ・ライターになりたいなというのは、かなり長い期間あった。 ですから作詞のことは全く別世界のものだという気がしていました。けれども、例えば昭和30年代に入って永六輔さんたちが書き始めた「黒い花びら」だとか、あの辺ですね。あれで別物だという感じだけはしなくなったんですよ。 自分と同じような言葉遣いをする人たちが現れた。 (『地球の男にあきたところよ~阿久悠リスペクト・アルバム』別冊BOOK阿久悠ロング・インタビュー’97再録――文・構成北沢夏音) それまでになかった日常会話の口語体による歌の誕生によって、1960年代に起こる歌謡曲のイノベーションが始まっていたことがわかる。 ..

左胸を泣かせるソウル・バラードの世界〜忌野清志郎/オーティス/サム/ジャッキー

ボビー・チャールズを偲んで〜ウッドストックの地に本物の南部音楽を伝え、多くのミュージシャン達に大きな影響を与えた男の功績と軌跡

2010年1月14日、ウッドストックの音楽シーンにおいて重要な役割を担ったシンガーソングライター、ボビー・チャールズ(享年71)が、ルイジアナ州アブヴィルの自宅で倒れ死去した。 直接の死因は明らかになっていないが、晩年の彼は糖尿病など健康上の問題を抱えており、腎臓癌の治療中だったという。 1938年、ルイジアナ州アブヴィルで生まれた彼は、17歳の時に白人アーティストとして初めてブルース/R&Bの名門レーベルであるチェスと契約。 ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツによるカヴァーでも有名な「See You Later, Alligator」などの名曲を生み出し、スワンプロックの発展に大きな功績を残した。 チェス時代の彼は、歌手として売れることはなく…テネシー州ナッシュビルの大きなラジオ局WLACの深夜のDJ、ジョン・Rの下で“雇われソングライター”として作品を生み出してゆく。 彼の書いた曲は、後にファッツ・ドミノやドクター・ジョン、レイ・チャールズなど数多くのアーティストに取り上げられることとなる。 また彼は、ライヴ活動を極度に嫌っていたミュージシャンとしても知られる。 1970年代初頭、ニューオリンズ音楽シーンの衰退とともに彼はニューヨーク州郊外のウッドストックへ移り住む。 その頃のウッドストックと言えば、あの伝説のロックフェス“Woodstock Music and Art Festival”の後、ボブ・ディランやザ・バンドなど多くの著名なミュージシャンが集まっていた。 そんな環境の中で、彼はザ・バンドのメンバーと交流を深めてゆく。 当時、ザ・バンドはボブ・ディランと共にアメリカ..

左胸を泣かせるソウル・バラードの世界〜忌野清志郎/オーティス/サム/ジャッキー

パティ・スミス二十歳の決意〜16ドルだけを握りしめて辿り着いたニューヨーク

1964年、当時17歳でローリング・ストーンズに憧れていた彼女は、ある日人生を変えるほどのアーティストと出会う。 歌声、歌詞、ルックス…彼女はボブ・ディランのすべてに心酔する。 「ある日、母が仕事先でレコードを買ってきてくれたの。ドラッグストアーで店員をしていたんだけど、そこに中古レコードの安売りコーナーがあって“聴いたことのない人だけど、この人、あなたの好きな誰かさんに似てると思ってね”そう言ってボブ・ディランのアルバム“Another Side of Bob Dylan”を私にプレゼントしてくれたの。」 そして、さらにそんな憧れの人とそっくりな容姿に惹かれて手にした一冊の本があった。 フランスが生んだ孤高の天才詩人、アルチュール・ランボーの詩集だった。 ランボーに大きな刺激を受けた彼女は、ついにアーティストとして生きる道を選択する。 しかし、お金がなかった彼女は美術学校に行くことができず、奨学金を得て美術教師になるために進学する。 ところが、教師を目指す真面目な生徒たちの間で彼女は居場所を失ってしまう。 ドロップアウトしてしまった彼女は、卒業を前にして妊娠をする。 お腹の子の父親もわからない状況で、彼女は学校を辞めざるをえなくなる。 当時のアメリカでは妊娠中絶は違法とされていたため、彼女は子供を産み、その子を養子に出すこととなる。 将来への希望と赤ちゃんを失い…悲しみに暮れながら彼女は工場で働き始める。 「愛情深く教養ある家庭に私は子供を託した。自制心、集中力、そしてお金も持ち合わせてなかった私は教員育成カレッジを退学した。それでもお金は必要だったから、フィラデルフィア..

左胸を泣かせるソウル・バラードの世界〜忌野清志郎/オーティス/サム/ジャッキー

Close