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ジョン・コルトレーンの最高傑作〜モダンジャズの巨人が到達した“至上の愛”とは?〜

モダンジャズ界サックスの巨人、ジョン・コルトレーン。 1950年代の終わりころから一気に花を咲かせて疾風のごとく通り過ぎていってしまった男である。 ジャズファンの中では“晩成型の巨人”とも言われた彼。 もう一人の巨人、マイルス・デイヴィスとは良く知られている通り同年齢だった。 1955年から61年まで、この二人の巨人は同じバンド(第一期マイルス・デイヴィス・クインテット)でプレイをしていた時期もあった。 こうして、マイルス・デイヴィスとは50年代後半の“モード時代”を共にするが、1967年に他界するまでの彼は、まるで自身の夭折を予期していたかのような煌めきに満ちたソロ名義の作品を残している。 本名ジョン・ウィリアム・コルトレーン。 1926年9月23日、ノースカロライナ州にあるハムレットという街で生まれる。 父ジョン・ロバート・コルトレーンは服の仕立て兼クリーニング業を営み、音楽好きでバイオリンとウクレレを趣味で弾いていた。 母アリス・ガートルード・ブレア(旧姓)は歌が上手く、オペラ歌手を志望したこともあり、リヴィングストン・カレッジでは音楽と教育学を学んでいたという。 そんな二人の祖父はどちらもアフリカン・メソジスト・エピスコパル・シオン(AMEZ)教会の牧師だった。 彼が誕生した年の終わり頃、一家はノース・カロライナ州、ハイポイントに移住。 母方の祖父ウィリアム・W・ブレア牧師宅での同居が始まった。 彼はこの田舎町で17歳まで多感な青春時代を過ごしている。 この辺りは、ワシントンDCとアトランタのほぼ中間に位置する黒人の多い地域で“黒人専用の教会”がたくさんあるエリアでも..

時を超えてコラボレートした2人のポップスター 〜マイケル・ジャクソンとドレイクの「Don’t Matter To Me」〜

ポップミュージックの歴史において新たなスタンダードが生まれる時、そこには革新的なアイデアを生み出すミュージシャンの存在がある。 ロックンロールを世界に広めた「キング・オブ・ロックンロール」エルヴィス・プレスリー。 R&Bやディスコ、ロックやヒップホップを区別なく取り入れ、次々とヒット曲を生み出した「キング・オブ・ポップ」マイケル・ジャクソン。 彼らは世界中の人々に音楽を届けるだけでなく、新たなスタンダードを作り出す「スター」と呼ばれる存在になっていった。 現代においてスターとしての役割を引き受けているラッパーの一人がドレイクだ。 彼は多くの人々に受け入れられながら、新しいスタンダードを作り続けてきた。 ドレイクはブルースの街メンフィスで生まれた。 父親は黒人で母親はユダヤ人という家庭で育った彼は、5歳の時に両親が離婚し、カナダのトロントへと移住する。 他の子供たちとは異なるバックグラウンドを持ったドレイクは、疎外感を覚えながら幼少期を過ごしていた。 そんなドレイクの楽しみは、夏休みに父親の住むメンフィスへ行くことだった。 彼の父親はドラマーとして活動していた。父親の仕事現場を見学したり、メンフィスの街に繰り出しながらブルースやカントリー、ソウルなど様々な音楽に触れていたという。 しかしドレイクのキャリアの始まりは音楽ではなかった。芸能事務所にスカウトされたことをきっかけに、俳優の道へ進むことを決意したのである。 2001年よりカナダの10代向けの学園ドラマシリーズ「Degrassi:The Next Generation」に出演。若手俳優として注目を集める。 しかし彼は自らのル..

崎山蒼志──恐るべき個性と才能を感じさせる、15歳のシンガー・ソングライター

悲しみを含んだ 夏の光 束ねてみたら 光は消えた 今日の空は 鰐の背中みたいだな やけにさびしい 目の前に1人 灰色のシャツを着て 歩いている カラスが鳴く (「夏至」より) 今もっとも注目を集めている15歳と言っていいだろう、シンガー・ソングライターの崎山蒼志(さきやま・そうし)。 2002年生まれで現在は静岡県浜松市に在住する彼は、4歳でギターを弾きはじめ、小学6年生の頃から曲作りをはじめたという。注目されるきっかけとなったのは、AbemaTVで放送された『日村がゆく』という番組の「高校生フォークソングGP」(2018年5月9日O.A.)への出演。学ラン姿にアコースティックギターを抱えて、髪の毛の寝癖もそのままに登場した彼は、13の時の気持ちを歌ったというオリジナル曲「五月雨」を披露。卓越したギタープレイ、独自の言語感覚から紡がれる文学的な歌詞、そしてクセになる歌声とオリジナリティあふれる節回しは、審査員としてその場で目撃した澤部渡(スカート)やサイトウ”JxJx”ジュン(YOUR SONG IS GOOD)が言葉を失うほどに圧倒され、若すぎる才能に惜しみない賞賛を贈った。 番組への出演は話題となり、パフォーマンスを収めた番組動画はまたたく間にSNSで広まっていく。彼の歌に触れた川谷絵音(ゲスの極み乙女/indigo la End)や岸田繁(くるり)といったミュージシャンたちが驚きの声とともに動画を拡散。ある朝起きたら、崎山のtwitterフォロワー数がいきなり5,000人以上増えていたという。 大きな注目を集める高校1年生・崎山蒼志が、初レコーディング作品となる「夏至..

細野晴臣の言葉で「読書と音楽が交差した」という松本隆が選んだ作詞家の道

松本隆がプロのミュージシャンとして音楽活動を始めたのは1969年の2月、細野晴臣に誘われてグループサウンズの「ザ・フローラル」にドラマーとして加入したときからである。 アマチュア・バンド「バーンズ」のドラマーだった松本はベースがやめた際に、立教大学にベースのうまい人がいると聞いてメンバー補充のために、直に電話をかけて細野に面会を申し込んだ。 細野が20歳の大学生、松本は18歳の高校生、その面会が初対面となった。 <参照>・細野晴臣はジミヘンの「ファイアー」と「紫の煙」を完コピして松本隆のオーデションに臨んだ 慶応大学に進んだ松本がバーンズのドラマー兼マネージャーとしてディスコのハコバンなどの仕事をしていたとき、複数のバンドを掛け持ちしていた細野からフローラルに参加しないかと声がかかった。 松本はオーディションを受けて、正式に加入することになった。 そこからフローラルはメンバー・チェンジを経て「エイプリル・フール」へと発展するが、その年の9月にアルバム『Apryi Fool(エイプリル・フール)』を出すと同時に解散してしまう。 小学生の頃からストラヴィンスキーやラヴェルを聴いていた松本は中学3年でビートルズに出会って、「こんな面白いものがあるんだ」と直撃をくらったことからバンドを始めたという。 その一方では宮沢賢治と中原中也に傾倒し、ジャン・コクトーやランボーなどの詩を詠む読書家でもあった。 作詞を始めるきっかけはバーンズ時代のことで、「お前はいつも本を読んでるから詞を書け」と細野に言われたことだった。 それまでは音楽好きな自分と本好きの自分は平行していたらしいが、細野の言葉に..

ジミヘンがナポレオンジャケット(軍服)を身にまとうようになった理由

1960年代…ビートルズ、ストーンズを始め、英国のロックミュージシャンたちの多くが身に纏っていたミリタリーファッション。 例えばビートルズが『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』のアルバムジャケットで着ていたあの衣装。 そしてアメリカからイギリスの渡ってブレイクしたジミ・ヘンドリックスが着ていたあの上着。 それらはファッションシーンなどで“ナポレオンジャケット”とも呼ばれている軍服のことである。 60年代の後半には世界的な流行となり、日本でもGS(グループサウンズ)のバンドメンバーがステージ衣装として取り入れていた。 ミリタリージャケットと呼ばれる多くのものは、第一次世界大戦時の英国軍の将軍の礼服だった。 ジミヘンは1966年に渡英してまもない頃、ロンドンのヴィンテージショップでゴージャスな軍服を見つけ、チャス・チャンドラー(アニマルズのベーシストでもあり当時ジミのマネージャーを担当)にベースを売って工面してもらったお金で購入した。 チャスは、アニマルズ時代にイメージ戦略(衣装や写真)の重要性をよく理解したので、なんの躊躇もしなかったという。 「あの服はイギリス王立獣医軍団のものさ!1898年製だったっけ?軍服としてはかなりの代物だ。」 ジミは十代の頃に(一時期だけ)アメリカで陸軍に志願入隊している。 陸軍第101空挺師団(別名スクリーミング・イーグルス)に所属し、実際に軍服に身を包んだ経験のある数少ない若手ロックミュージシャンの一人だった。 「16歳で学校を中退して暇を持てあましてたし、俺が生まれ育ったシアトルの町では面白いことな..
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