ジョニー・ウィンターの名を有名にしたフィルモア・イーストの奇蹟

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1969年にコロンビア・レコードからレコードをリリースした白人のブルース・ギタリスト、ジョニー・ウィンター。
その契約金は当時では異例の大金で、そのことから日本では“100万ドルのブルース・ギタリスト”という触れ込みで宣伝された(実際にはハーフ・ミリオン、5~60万ドルほどだったようだ)。
契約のきっかけは1968年の12月13日、ニューヨークのライブハウス、フィルモア・イーストで演奏したことだった。
この日はマイク・ブルーム・フィールドとアル・クーパーの出演が予定されていた。
2人はスティーヴン・スティルスを加えた3人で『スーパー・セッション』というアルバムを7月にリリースして話題となっていた。
元はマイクとアルの2人で制作していたという経緯もあり、この作品を発表してから一緒にライブをする機会が増えていたのだ。



そこへジョニー・ウィンターを売り込んだのがジョニーのマネージャーをしていたスティーヴ・ポールだ。
ジョニーの実力であれば2人と同じステージに立っても見劣りすることはないし、ニューヨークのブルース・ファンにジョニーの存在をアピールする絶好の機会だった。
その腕前を知っていたマイクは、ジョニーをゲストとして歓迎する。
ステージに登場したジョニーはB.B.キングの「イッツ・マイ・オウン・フォルト」を熱演して大喝采を浴びた。
このときのパフォーマンスはのちに『フィルモア・イーストの奇蹟』としてリリースされることとなる。


ライブは大成功に終わり、マイクとアルのファンにも存在をアピールすることができたジョニーだが、もうひとつ幸運なことが起きていた。
この日、会場には『スーパー・セッション』をリリースしたコロンビア・レコードの代表が来ていたのだ。
当時はサイケデリック・ロックが人気を集めていたが、同時にジミ・ヘンドリックスやエリック・クラプトンのバンド、クリームなどの存在によってブルース・ロックの人気も高まっていた。
そしてジョニー・ウィンターには大金を注ぎ込む価値があるとコロンビア・レコードは判断した。
そうした時代背景と偶然のめぐり合わせによって、ジョニーは破格の大金で契約を果たすことができたのだった。
翌1969年にアルバム『ジョニー・ウィンター』をリリースしたジョニーだが、メディアが伝えるのは契約金のことばかりだった。音楽についてはあまり触れられず、そうした状況はジョニーにとってあまり気分のいいものではなかった。
しかしこの経験があったからか、その後のジョニーは音楽産業に飲み込まれることなく、自身のブルースを追求し続けていくのだった。
ところで。
ジョニー・ウィンターはなぜブルースにのめり込むようになったのだろうか。
それには彼がアルビノだったことが大きく関係していた。
周りの人間よりも肌や髪の色が白いことで幼い頃から奇異の目で見られていたジョニーにとっては、白人よりも、同じく肌の色で差別を受けていた黒人のほうに親近感を得たのである。
「俺たちは肌の色が違うっていう共通の問題を抱えてきたのさ」

Al Kooper / Mike Bloomfield『The Lost Concert Tapes 12/13/68』

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