人類滅亡後の世界に流れているムード音楽~『ナマで踊ろう』坂本慎太郎

個人情報の流出やフェイクニュース、SNSの拡散、炎上、 小さな画面の中で今、人々は右往左往している。 AI(人工知能)や、車の自動運転の開発、 とどまるところを知らない進化、 コンピューターに翻弄される私たち人類。 いっそのこと、 ロボットにでもなってしまった方が楽になれるだろうか。 眉間に小さなチップを埋めるだけ 決して痛くはないですよ ロボット 新しいロボットになろう 不安や虚無から解放されるなら 決して高くはないですよ ロボット 素晴らしいロボットになろう 弁護士ロボ 魚屋ロボ 歯科助手ロボ お米屋ロボ 税理士ロボ おもちゃ屋ロボ アイドルロボ 警察ロボ 日本の2割が賛成している ポップなメロディーにのせて、かもめ児童合唱団が楽しそうに歌っているが、なんだかSF的で少し薄気味悪くも感じられる。この「あなたもロボットになれる」を作ったのが、坂本慎太郎だ。2014年に発売された彼のソロ・アルバム『ナマで踊ろう』の中では、坂本自身がヴォーカルをとっている。 日本国内だけでなくヨーロッパでもカルト的人気を博したロックバンド、ゆらゆら帝国の中心人物で、ヴォーカル兼ギタリストだった坂本慎太郎。2010年にバンドを解散した翌年より、3枚のソロ・アルバムをリリースしている。 その中でも、特に社会風刺の色合いが強い内容となっているのが、2014年にリリースされた、2枚目となるソロ・アルバム..

ブルース・スプリングスティーンとクラレンス・クレモンズ〜永遠のミッシング・リンク

ブルース・スプリングスティーンとクラレンス・クレモンズ〜永遠のミッシング・リンク

ブルース・スプリングスティーンの自伝的作品「Tenth Avenue Freeze-Out」(『Born To Run』収録)にはこう歌われている。「ビッグ・マンがバンドに加わって、転機が訪れた」と。 ブルースとザ・ビッグ・マンことクラレンス・クレモンズの出会いは今や伝説だが、クラレンスは半分は作り話と認める愉快な自伝『Big Man』で、これこそが真実とする話を語っている。1971年9月の運命の夜、彼はブルースの出演していたクラブに行った。 「雨が降って風が強い日だった。俺が扉を開けたら、それが蝶番から外れて、道路の方へ飛んでいった。バンドは舞台上で演奏中だったが、入口の枠の中に立つ俺をじっと見た。それがブルースをちょっと不安にさせたんじゃないかな。だって、「君のバンドと一緒に演奏したい」と言っただけなのに「もちろん、何でもやりたいことをやってくれ」と言ったからね。 最初にやった曲は「Spirit In The Night」の初期のヴァージョンだった。ブルースと俺はお互いを見て、一言も言わなかったけど、俺たちがお互いの人生に欠けていたミッシング・リンクだとわかったんだ。彼は俺がずっと探していたものだった。やせた小柄な若造にすぎなかったけど、彼には将来を見通す力があった。彼は自分の夢を追いかけたかった。そのときから俺は歴史の一部になったんだ」 クラレンスの力強いサックス演奏はE..

人類滅亡後の世界に流れているムード音楽~『ナマで踊ろう』坂本慎太郎

Green Green〜アメリカの不安定な社会情勢や既成概念に対する反発から生まれた歌

グリーングリーン 噂に聞くその地は ずっと遠くの丘の向こうにあるんだ グリーングリーン 僕は旅立つよ 緑輝く希望の地へ… 生まれたその日にママに言ったさ 僕がいなくなっても泣かないでって 僕を落ち着かせる事が出来る女性なんていないんだ 僕はただ彷徨い続けるだけ…歌いながら この「Green Green」は、アメリカの男女混成の10人組フォークグループ、ニュー・クリスティ・ミンストレルズが1963年に発表した楽曲だ。 作詞作曲は、グループの中心メンバーだったバリー・マクガイアとランディ・スパークスによるもの。 リードボーカルのバリー・マクガイアは、1965年にソロキャリアをスタートさせデビューシングル「Eve Of Destruction(明日なき世界)」で全米No.1を獲得する。 核戦争による人類の破滅の恐怖を描いたこの曲は、ラブソングばかりがヒットチャートを賑わせていた当時のミュージックシーンに大きな衝撃を与え、その後、若者たちの関心を社会問題や政治に向けさせるきっかけを作ったと言われている。 当時のアメリカといえば…人種差別問題への関心が高まりつつあった時期。 「Green Green」が発表された1963年は、エイブラハム・リンカーン大統領が奴隷解放宣言を行った年からちょうど100周年を迎える記念の年でもあった。 マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師がワシントン大行..

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Rain Dogs〜トム・ウェイツが80年代に発表した名盤にまつわるいくつかの逸話

壊れた置き時計の中 ワインをまき散らす 雨の犬たちと一緒になって… タクシー、俺たちゃ歩いた方がよさそうだ 雨の犬たちと一緒に戸口めざし一目散 だって俺も雨の犬だからね… ラムを浴びるように呑んで 踊りの精を追い払ってしまえ 雨の犬たちとつるんでね… 破滅の行列にくわわるのさ 俺の傘なんて雨の犬たちにくれてやる だって俺も雨の犬だからさ… このタイトルナンバーを含むアルバム『Rain Dogs』は、1985年にトム・ウェイツがリリースした名盤だ。 “レイン・ドッグ”とは、雨で匂いが消えてしまい家に帰れなくなった迷い犬のことらしく、解釈によっては浮浪者やホーボーといった意味も含まれるという。 印象的なジャケットに写っている男は(雰囲気が本人に似ているのだが)トム・ウェイツではない。  ストックホルム出身の写真家アンダース・ぺーターセンが、ハンブルグのバーでのナイトライフを撮ったシリーズ作品から起用されたもの。 この一枚の写真に魅せられたトムは、ジャケットについてこんなことを語っている。 「写真はダイアン・アーバス(48歳で自殺した伝説の女流写真家)の作品とどこか通ずるものがあった。酔いどれ水兵がイカれた売春婦に抱かれる姿。女はケラケラ笑っているけど…男はすっかり酔いがさめていた。俺はこの写真を初めて見た時、しばらく釘付けになったんだ。」 本作は発売当時あまりヒットしなかったらしいが..

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フジ子・ヘミング27歳〜国籍を失った青春時代、そして難民としてドイツ留学の夢を叶える

フジ子・ヘミング。 「聴いた人が涙を流すピアニスト」 「聴力の80パーセントを失った音楽家」 「60歳を過ぎるまで全く無名だった天才アーティスト」 彼女がメディアで紹介される時に使われてきたフレーズだ。 「憧れのドイツ。母が学んだベルリンの街。きっと私のピアノを評価してくる人がいるに違いない。目をつむれば…大勢の聴衆が私のピアノに、私の奏でる音に、歓声と拍手で応えてくれる。その様がありありと浮かんでくるんです。」 彼女はロシア系スウェーデン人だった父親の都合で、18歳の時に日本にいながらも国籍を失う。 その後、ドイツへの音楽留学を試みるが…無国籍の彼女はパスポートが取れずに一般での留学を断念。 国籍を持っていなかったがためになかなか海外留学できずに鬱々と過ごした若き日々…彼女は何を思い、何を夢見ていたのだろう? 「母は子供だった私に、いつもドイツの話、ベルリンの話を得意気にしてくれました。だから私にとってベルリンは“未知の場所”というよりは、心の中で確かに息づいている“私の街”でもあったのです。」 ──1932年12月5日、彼女は東京音楽学校(現・東京芸術大学)出身のピアニスト大月投網子(おおつきとあこ)とロシア系スウェーデン人画家/建築家ジョスタ・ゲオルギー・ヘミングとの間にベルリンで生まれる。 一家は彼女が5歳の時に日本に帰国。 父は開戦の気配が濃い日本に馴染めずスウェー..

人類滅亡後の世界に流れているムード音楽~『ナマで踊ろう』坂本慎太郎

J-POPという言葉と共にMr.Childrenは成長していった➀ 〜「CROSS ROAD」で見せた日本の新しいポップスの可能性〜

J-POPという言葉が生まれたのは1988年の末だと言われている。 当時開局したばかりのJ-WAVEが洋楽の影響を受けた日本のポップスや、洋楽と肩を並べられる楽曲を総称する際に用いられたのが最初だった。 最初は局内のみで使われていただけだったが1989年に「J-POP・クラシックス」という番組がオンエアされて以降、だんだんと一般の人々にもJ-POPという言葉が認知されていく。 その言葉と同じ1988年末に誕生したMr.Childrenは、まさに日本語のポップスの先人たちに憧れて活動を始めて、「J-POP」と共に成長していったバンドである。 Mr.Childrenのフロントマン、桜井和寿が音楽に目覚めたのは中学生の頃だ。 山形の親戚の家で浜田省吾と甲斐バンドのレコードを聴いて、その歌の力強さやメロディに一瞬で心を奪われたという。 そうして音楽にのめり込み、ラジオ番組「NHKサウンドストリート」をかじりついて聴くようになる。 サザンオースターズや井上陽水のレコードにも影響を受けて、桜井はいつしか彼らのようなミュージシャンになることに憧れた。 高校になると同級生の田原と中川とともに、桜井は「Beatnik」を結成する。そしてプロ志向だった彼らは、いきなりオリジナル曲を作り始めた。 ソングライターを目指していた彼が作ろうとしたのは、憧れていたミュージシャンたちのような、海外の音楽のエッセ..

人類滅亡後の世界に流れているムード音楽~『ナマで踊ろう』坂本慎太郎

「愛燦燦」~小椋佳が歌うデモテープを聴いた美空ひばりのひとことで人生賛歌が誕生した

――ハワイのサトウキビ畑で働く農夫とその家族たち。夕方、収穫を終えた一家が馬車で家路をたどる。母に抱かれて眠る少女。突然の激しい夕立に小屋の軒先で雨を避ける一家が、やがて真っ赤な夕日に染まる― 「愛燦燦」は味の素株式会社の企業CMのためにつくられた作品で、素人俳優たちによる「家族愛」をテーマにした映像が先に完成していた。 この曲が味の素のCMソングとして生まれたきっかけは、映像担当プロデューサーだったホリプロダクションの岩上昭彦が、映像の仕上がりが良かったので、それにふさわしい歌が欲しいと思ったことに始まる。 いい音楽がつけばさらに「家族愛」のメッセージが際立つだろう思ったときに浮かんだのは、入社4年目だった1978年にスタッフとして関わった山口百恵・三浦友和主演の映画『ふりむけば愛』で、主人公の心情を的確な歌詞で表現した小椋佳だった。 思い出にするよりもいつだって 新しい夢の旅 君としたいよ さよならの歌が今 解けて消える 心に深く 心に熱い 昨日と明日をつなぐ 愛は君 ふりむけば愛 では小椋佳が曲を書いたとして、歌うのは誰がふさわしいのか?  岩上はホリプロの所属歌手を思いうかべたが、イメージが結びつかなかった。 そして映像の中の大家族を支える気丈な母親から、急に美空ひばりを思いついたという。 突拍子もないアイデアだとは承知の上で、ホリプロにおける音楽の原盤制作部門だった東..

人類滅亡後の世界に流れているムード音楽~『ナマで踊ろう』坂本慎太郎

ロック・オブ・エイジズ〜一緒に歌えるロックミュージカルの最高傑作!

とにかく楽しくて思わず歌いたくなる。そして人には夢と希望があるから前向きに生きられる。こんな何でもないことを言うのは簡単だが、これを一級のエンターテインメント作品に仕上げるのはとても難しい──しかし、『ロック・オブ・エイジズ』(ROCK OF AGES/2012)はそれを物語として魅せてくれる。ブロードウェイで大ヒットしたミュージカルの映画化で、舞台にはないオリジナルのキャストや曲も登場する。 音楽を聴くだけでなく、“観て聴く”ことが最初になった時代。そんな1980年代に10代を過ごしながら洋楽やMTVに慣れ親しんだ世代なら、理屈抜きに真っ直ぐに突き刺さってくる作品だと思う。60〜70年代のオールドロック、90年代のオルタナロック、00年代以降のダウンロードやネット環境といった他の世代が持つ音楽的光景とは明らかに違う、あの時代特有の“視覚的興奮”がスクリーンいっぱいに広がっていく。 この作品には、日本の音楽メディアが「産業ロック」「商業ロック」と揶揄してまともに取り上げることのなかったような曲がふんだんに使用されているが、でもそれが一体どうしたの言うのだろう? キャッチーなメロディのハードロックやパワーバラードが登場人物や観客の心境を見事に捉えつつ、一つの確固たるムードや世界観を貫き通している。こういうものを作ろうとした発想が素晴らしい。そこに余計な批判や否定は野暮というものだ。 ..

人類滅亡後の世界に流れているムード音楽~『ナマで踊ろう』坂本慎太郎

「雨が空から降れば」~フォークソングに演劇や現代詩の世界を結びつけたパイオニアの小室等

小室等はフォークシンガーとしては日本の草分け的な存在で、シンガーであり、ソングライターであり、音楽家である。 井上陽水がまったく無名の頃、アンドレ・カンドレの名前でシングル盤を出したが、その時の編曲は小室等だった。 唐十郎が率いる状況劇場の赤テント芝居では、ほとんどの作品で劇中歌を手がけていた。 テレビの人気時代劇『木枯し紋次郎』などの主題歌なども手がけてヒット曲を出す一方で、六本木自由劇場ではアングラ演劇に自ら出演するなど、新しい文化をと生み出してきたパイオニアだ。 上の写真は音楽史に残る野外フェスティバルとなった、1971年の第3回全日本フォーク・ジャンボリーのときのものである。(撮影・井出情児) 1971年に発表された初のソロ・アルバム『私は月には行かないだろう』では、それまでメロディーがついて歌われるとは考えられていなかった日本の現代詩から、大岡信の「私は月に行かないだろう」、谷川俊太郎の「あげます」、茨木のり子の「12月の歌」などを取り上げて歌にしていた。 そしてアルバムの1曲めに収録されて、後に一般にも知られるようになったのが「雨が空から降れば」だった。 1960年代は世界各地で若者たちがそれまでの価値観や商業主義に束縛されない表現を求めて、さまざまな分野で自由で新しい文化をと生み出していった時代だ。 日本でも映画ではヌーベルバーグ、音楽ならばフォークやロックの登場、..

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6月に去ったレジェンド④〜ザ・フー/プリテンダーズほか

★ダウンロード/ストリーミング時代の色彩別アルバムガイド 「TAP the COLOR」連載第265回〜BLUE〜 (6月に亡くなった主なミュージシャン) ロック/ポップ:アンドリュー・ゴールド、ロニー・レーン、ボブ・ウェルチ、ヘンリー・マンシーニ、ロリー・ギャラガー、クラレンス・クレモンズ、フレッド・アステア、ジュディ・ガーランド、ジェイムス・ハニーマン・スコット(プリテンダーズ)、ジョン・エントウィッスル(ザ・フー)、ローウェル・ジョージ、ローズマリー・クルーニー カントリー/フォーク:コンウェイ・トゥイッティ、ティム・バックリィ、チェット・アトキンス ブルーズ/R&B/ソウル:デヴィッド・ラフィン(テンプテーションズ)、ボ・ディドリー、ココ・テイラー、ビリー・プレストン、レイ・チャールズ、ジョン・リー・フッカー、ボビー・ブルー・ブランド、マイケル・ジャクソン、ボビー・ウーマック ジャズ:メル・トーメ、スタン・ゲッツ、オーネット・コールマン、ベニー・グッドマン、エラ・フィッツジェラルド、アート・ペッパー、ジューン・クリスティ、クリフォード・ブラウン、エリック・ドルフィー その他:ケイシー・ケイサム、ジェームズ・ホーナー あなたの好きな色は?〜TAP the COLORのバックナンバーはこちらから ザ・フー『The Who Sings My Generation』(1966)..

人類滅亡後の世界に流れているムード音楽~『ナマで踊ろう』坂本慎太郎

6月のナンバーワンアルバム②〜プリンス/コールドプレイほか

★ダウンロード/ストリーミング時代の色彩別アルバムガイド 「TAP the COLOR」連載第264回〜COLORFUL〜 1990年代以降、ビルボードのアルバムチャートは売り上げに基づいた集計方法に変わった。さらにゼロ年代に入るとネット配信が普及してCDやアルバムが売れなくなった。その影響もあって現在のチャートはほぼ毎週のようにナンバーワンが入れ替わり、すぐにトップ10圏外へランクダウンしてしまう(その代わりに年に数枚だけビッグヒットが生まれる)。だが70〜80年代はナンバーワンになること自体が困難で、言い換えればそれらは「時代のサウンドトラック」として確かに機能していた。6月にはどんなアルバムがナンバーワンになったのだろう? あなたの好きな色は?〜TAP the COLORのバックナンバーはこちらから エルトン・ジョン『Captain Fantastic and the Brown Dirt Cowboy』(1975) ビルボードのアルバムチャートで史上初めて初登場1位(9週1位)を記録した、エルトン全盛期における代表作。ベスト盤含めて当時6作目のナンバーワン・アルバムでもある。相棒である作詞家バーニー・トーピンをカウボーイ、エルトン自らをキャプテンとして、二人の思い出をテーマにしたコンセプト作品。印象的なジャケットワークはアラン・オルドリッジによるもの。2006年には続編..

人類滅亡後の世界に流れているムード音楽~『ナマで踊ろう』坂本慎太郎

追悼・寺尾次郎(2)~ゴダールの名を不滅にした『気狂いピエロ』で語られるランボー詩の一節

盗んだ車を乗り継いでパリからフランスを南下し、地中海に向かう男(ジャン=ポール・ベルモンド)と、かつて恋人だった女(アンナ・カリーナ)。 女は男をピエロと呼ぶ。 殺人事件に巻き込まれた男がパリを後にするのは、退屈が見えている結婚生活と、しがらみに満ちた社会から脱出するためだ。 だが、南仏にはいったい何があるというのか? 冒険活劇漫画を携えて旅に出てm愛と永遠を求めてさすらう2人。 そのまわりにはつねに、犯罪や暴力がつきまとってくる。 映画の表現に新たなる時代の到来を告げたジャン=リュック・ゴダールの『気狂いピエロ』が、寺尾次郎の新訳で蘇って再上映されたのは2016年7月のことだ。 ヌーベルバーグの代表作となったデビュー作『勝手にしやがれ』と、最高傑作という声が高い『気狂いピエロ』の二本が、あらためて撮影ネガをデジタル化したうえで新たな音ネガによって、デジタル版であることとともに寺尾次郎による新訳ということも、映画ファンの間では話題になった。 そのときの公式ホームページには、こんな惹句が打ち出されていて、ちょっと興奮させされたおぼえがある。 35歳のゴダールが、長編10作目で到達したヌーヴェル・ヴァーグ波高の頂点!自由!挑発!疾走!目くるめく引用と色彩の氾濫。 饒舌なポエジーと息苦しいほどのロマンチスム。『勝手にしやがれ』以来の盟友である撮影のクタール、ゴダールのミューズでありな..

人類滅亡後の世界に流れているムード音楽~『ナマで踊ろう』坂本慎太郎

1926年、ビング・クロスビーがポール・ホワイトマン楽団に歌手として入団

「TAP the CHART」118回は、1926年を取り上げます。 【1926年のTOP 10 HITS】 ❶Valencia / Paul Whiteman ❷Who / George Olsen ❸Baby Face / Jan Garber ❹Sleepy Time Gal / Ben Bernie ❺The Birth of the Blues / Paul Whiteman ❻Bye Bye,Blackbird / Gene Austin ❼Always / George Olsen ❽I’m Sitting On Top of the World / Al Jolson ❾Breezin’ Along With the Breeze / Johnny Marvin ❿Always / Vincent Lopez *参考/Joel Whitburn監修『Pop Memories 1900-1940』。ナンバー1ヒットのうち、1位の獲得週が多かったもの順に掲載(同点の場合、チャートに留まった週が多い方を優先)。 【1926年の主な音楽的出来事】 ◯ビング・クロスビーがポール・ホワイトマン楽団に歌手として入団。初ヒットは翌年の「Muddy Water」。 ◯ルース・エッティングが「Lonesome & Sorry」で最初のヒットを飛ばす。 ◯ジェリー・ロール・モートン..

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ポール・ウェラーがシティという聖地で目撃した「若者の理想像」

 イデア。  それはアイディアという言葉の語源となるギリシア語で、プラトンが使ったことで有名だ。我々が暮らす現象世界とは別の、イデア世界があり、我々が目にするものは、イデア世界の劣化コピーに過ぎないのだと、プラトンは考えたといわれている。 ♪  シティには  君に話してやりたいことが  山ほどあるのさ ♪  1977年にザ・ジャムはこの曲でデビューするわけだが、当時のロンドンは、パンクによって長い眠りから醒めたような熱狂にあった。18歳だったポール・ウェラーも、セックス・ピストルズやクラッシュに刺激を受けていた。  ポール・ウェラーは、2011年、雑誌「Q」でこのデビュー曲を振り返っている。 「あれは、若い労働者階級のサウンドだった。ロンドン出身でなかったとしても、郊外から飛び出してやろうという若者たちのね」  ロンドンだけでなく、イギリスは長い不況の中にあった。 「自分たちにとっていえば、シティは、すべてが起こっている場所だった。そこにはクラブが、ライブが、音楽があった。私は確か、18歳だった。刺激的な時代であり、年だった。ロンドンは、ポスト・ヒッピーの日々から抜け出そうとしていた。そして新しい世代が出てきていたんだ」 ♪  シティでは  何千という顔が輝いている  そしてみんな25歳以下なのさ ♪  1960年代のアメリカでは「30歳以上を信じるな」と言われたものだが、..

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追悼・寺尾次郎(1)~音楽から映画へ道に進み、字幕翻訳家になったシュガー・ベイブのベーシスト

小学生の頃から映画が好きだった寺尾次郎は、よく叔母さんに東宝の怪獣映画と青春ものと外国映画の3本立てに連れて行ってもらったそうだ。 音楽活動を始めていた大学時代はベーシストだったが、1975年3月から山下達郎が率いるシュガーベイブに参加し、翌年4月1日の解散ライブまでメンバーとして活躍した。 ただしメンバーに加入したときは、デビュー・アルバム『SONGS』(4月25日発売)が完成した直後だったので、日本の音楽史に残るその記念碑的なアルバムで演奏していたわけではない。 シュガーベイブはアルバムを完成させるとほぼ同時に、バンドとしてのライブ活動を強化するために、山下達郎と大貫妙子、村松邦男というフロントの3人と、ドラムが上原裕(ユカリ)、ギターが伊藤銀次、そしてベースが寺尾次郎という布陣になった。 ドラムとベースはバンドにとって、きわめて重要度の高い裏方仕事だ。 当時の経緯については伊藤銀次が、著書「伊藤銀次 自伝 MI LIFE,POP LIFE」のなかでこう語っている。 僕とユカリ君が入るとき、ベースの鮫川己久男君がやめて、寺尾次郎君が入ってきて、山下君がそのときに話してたのは、この編成だと曲によってトリプル・ギターで1キーボード。曲によってはツイン・ギターでツイン・キーボードってこともできるし、バリエーションが増えると。 ところがいざ加入してみると、山下達郎が書くような複雑..

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ゲッタウェイ〜前代未聞のアドリブで伝説になったスティーヴ・マックィーンの代表作

1968年の主演作『ブリット』で、体制側である刑事役を演じたにも関わらず、“瞬間の演技”ともいうべき孤独感を貫き、やはり権力とは無縁のアウトローであり続けたスティーヴ・マックィーン。映画俳優として本当の自信を得て、長年思い描いてきた“マックィーン像”を遂に完成させた。 その後、ウィリアム・フォークナー原作の『華麗なる週末』(1969)、自らのカーレースへの情熱が全編に渡って流れた『栄光のル・マン』(1970)、サム・ペキンパー監督の『ジュニア・ボナー』(1971)と、同時期の世界的ロックバンドのように年に1作のペースで順調にキャリアを重ねたマックィーンだったが、私生活では深い溝と直面していた。売れない頃から一緒だったニール・アダムスとの15年の結婚生活を終えたのだ。 心機一転した43歳のマックィーンは、シドニー・ポワチエやバーブラ・ストライサンドやポール・ニューマンらと新たにFAP(ファースト・アーティスツ・プロダクション)を設立。その第1回作品となったのが代表作の一つ『ゲッタウェイ』(The Getaway/1972)だ。 『ワイルド・バンチ』『わらの犬』など、バイオレンスの巨匠として知られるサム・ペキンパー監督と二度目のタッグを組み、映画は大ヒット。脚本はウォルター・ヒル、音楽はクインシー・ジョーンズが担当した。 また、共演には『ある愛の詩』でスターとなった知性派女優アリ・マッ..

人類滅亡後の世界に流れているムード音楽~『ナマで踊ろう』坂本慎太郎

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