パティ・スミス少女時代①〜初めて歌った曲、初めて買ったレコード、そしてリトル・リチャードの衝撃

パトリシア・リー・スミス。 後に“パンクの女王”と称されるようになるパティ・スミスの本名である。 1946年12月30日、彼女はイリノイ州シカゴのサウスサイドで生まれた。 その日は暴風雪の月曜日だったという。 両親は典型的な労働者階級のカップルだった。 時代は第二次世界大戦直後で、アメリカもまた戦争で受けた深い傷から立ち直るために必死だった。 悪化する経済状況、劣悪な労働条件、困窮する庶民の生活…そんな中、二千万人の復員軍人たちが仕事を求めていた。 工場でア働く父、ドラッグストアの店員だった母。 長女として生まれた彼女には、すぐに弟と二人の妹ができた。 「私が人生で初めて歌った曲は“Jesus Loves Me”だった。シカゴの家の前のポーチに座って、猿を連れたオルガン弾きが来るのを待ちながら歌っていた自分の姿を憶えているの。その頃、ラジオから流れていた曲も憶えている。ジョー・スタッフォードの“Shrimp Boats”がヒットしてたわ。」 1951年、彼女が4歳の時に一家はシカゴを離れてペンシルベニア州フィラデルフィア北部の街に移り住む。 そこは労働者のために用意された仮設住宅だったという。 「漆喰の塗られたバラックで、野生の花が咲く寂し気な野原を一望できる家だったわ。私たち住民はその野原を“ザ・バッチ(領地)”と呼んでいたの。暖かい季節には、子供達がかけまわっている間、大人達は煙草を吸ったり、たんぽぽ酒を飲んだりして過ごしていた。ひな菊の輪を作って首飾りや冠にしたのを憶えてるわ。夕方になると蛍を集めてガラス瓶に入れて、その光を眺めたり、指にとまらせて指輪に見立てたりした..

カルメン・マキ&OZのアルバムに刻み込まれた時代の空気と諦念~春日博文の静かなる復活④

カルメン・マキ&OZのアルバムに刻み込まれた時代の空気と諦念~春日博文の静かなる復活④

1975年から76年にかけてカルメン・マキ&OZが発表した2枚のオリジナル・アルバムを聴くと、それぞれの時代の空気がレコード盤の溝に刻み込まれているように感じられる。 すべてがいつのまにか負の方向に向かい始めていたのに、その流れに気づかないまま無力感に包まれていった日本と日本人ーー。 セカンド・アルバム『閉ざされた町』の「崩壊の前日」は、そうしたことを描いている歌詞だったが、どこかに諦念がただよっていた。 「崩壊の前日」 作詞:加治木剛 作曲:春日博文・川上茂幸 直立不動のビルの隙間から 入道雲が動きだし 白い世界が広がれば 誰もがみんな変わってしまう 私は熱いコーヒー飲んでる サテンの窓の2階より これ以上の怒りを放り投げて 無理矢理私も知らん顔 手の中で独り積み木遊びをやっては 壊して笑っていたよ 私はにがい明日を知ってる いつもと同じ独り芝居 終戦後の復興から1960年代までの日本の高度成長期は、資本主義国を中心にした世界経済の順調な発展、1ドル360円に固定された為替レートのもとでの輸出拡大、安価で無制限な資源・エネルギーの供給に支えられていた。 その3つの前提条件が相次いで崩れたのは1971年8月で、貿易赤字が続いていたアメリカがドルの固定相場制に耐えられなくなり、それを放棄したのが発端だった。 日本はまったく予期していなかった円の変動相場制(フロート)に移行し、円の大幅な切上げを余儀なくされた。 世界でも同時にインフレや農作物の不作から物資が不足する現象をもたらし、1973年の秋に始まった第4次中東戦争が引き金となり、「第1次石油危機」が生じたことから世..

パティ・スミス少女時代①〜初めて歌った曲、初めて買ったレコード、そしてリトル・リチャードの衝撃

愛と栄光への日々〜ブルース・スプリングスティーンが感謝したジョーン・ジェット主演作

マーティン・スコセッシ監督、ロバート・デ・ニーロ主演の伝説的作品『タクシー・ドライバー』の脚本を書いたポール・シュレイダーは、その後監督業に進出。『アメリカン・ジゴロ』『キャット・ピープル』などを手掛ける中、1981年に新しい脚本を書き上げた。タイトルは『Born in The U.S.A.』。 シュレイダーはこの映画のためのサウンドトラックをブルース・スプリングスティーンに依頼するため脚本を送る。これを読んだスプリングスティーンは、テーマにもストーリーにも感動して快諾。しかし、不運にも様々な問題が生じてしまい、映画製作は頓挫。結果、タイトルだけが生きることになり、1984年にあのベストセラー・アルバムが誕生。クレジットには「ポール・シュレイダーに感謝を込めて」と刻まれた。 シュレイダーは諦めずに映画製作を再開。今度はスプリングスティーンが主題歌をプレゼントする。その「Light Of Day」は映画のタイトルになり、1987年に公開されることになった。 『愛と栄光への日々』(Light Of Day/1987)の主演は、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』でチャック・ベリーの「ジョニー・B・グッド」をダックウォークしながら弾いてR&Rの歴史に貢献したマイケル・J・フォックス。そしてランナウェイズでガールズバンドの伝説を作り、脱退後に自前レーベルから「I Love Rock ‘n’ Roll」で全米ナンバーワン・ヒットを放った姐御ジョーン・ジェット。 二人は映画のために実際にバンドを組み、意気投合。吹き替えなしで映画中の音楽を演奏した。撮影2ヶ月前から練習に励み、シカゴのバーに覆..

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ランナウェイズ〜平均年齢16歳で男社会に殴り込みをかけた伝説のガールズバンド

私たちは地獄のような苦しみを味わって、音楽業界で女の子たちが楽にやっていけるようにしようとした。兵士みたいに血まみれになって戦って、ボコボコにされたけど、今こうしてここにいる。(シェリー・カーリー) 1975年、ロサンゼルス。16歳のジョーン・ジェットはスージー・クアトロとギターに恋していて、ロックスターになることを夢見ている。だが、ロックはまだまだ男たちのイメージが強く、少女だというだけでギター教室はエレキギターの弾き方さえ教えてくれない。そんなある夜、行きつけのクラブで敏腕プロデューサーのキム・フォーリーと知り合う。キムはジョーンを見て「女の子だけのバンド」が商売になることを思いついた。 一方、15歳のシェリー・カーリーは双子の姉と「普通で可愛い女の子」の日々を送っている。だが、歌うこととデヴィッド・ボウイの物真似が大好きなシェリーはLA郊外の学校では浮いた存在。母親が男を作り、父親は酒浸りで家にも帰ってこないことにも、思春期の少女の心は揺れていた。そんなある夜、行きつけのクラブでキムにスカウトされてジョーンを紹介される。こうしてランナウェイズは始動した。 1970年代半ば〜後半にかけて、日本でも熱狂的な人気を博したガールズバンド、ランナウェイズ。メンバー全員が10代の女の子で、デビュー当時平均年齢16歳ということでも話題になり、来日公演や番組出演や雑誌の取材をはじめ、追っかけのファンたちに追い回され続けるという、本国アメリカとは比べものにならないくらいスーパースターだった5人組。 シェリー・カーリー/Vo ジョーン・ジェット/G&Vo リタ・フォード/G ジャッキー・フ..

パティ・スミス少女時代①〜初めて歌った曲、初めて買ったレコード、そしてリトル・リチャードの衝撃

ビリー・ホリデイ27歳〜歌手としての成功、結婚、夫の浮気、そして麻薬に溺れて行く日々…

伝説のジャズシンガーとして名高いビリー・ホリデイ。 44年間の生涯の中で、約25年も歌い続けた彼女。 その音楽人生はけっして順風満帆なものではなかった。 キャリア初期には驚くほどハリがあった声も、多量のアルコール・麻薬摂取により、晩年は別人のように枯れてしまい…声量も失われていった。 彼女が麻薬に手を染め始めたのは二十代だったという。 ──1941年、当時26歳だった彼女は1930年代にハンガリー語から英訳された「Gloomy Sunday (暗い日曜日)」を歌った。 それは、自身最大のヒットとなった「Strange Fruit (奇妙な果実)」(1939年)に続く好セールスを記録した。 こうして彼女は成功への階段を着実に昇り詰めてゆく。 そんな中、トロンボーン奏者であり麻薬の密売人でもあったジミー・モンローと関係を深め、母と住む家を出て早々に結婚することとなる。 10歳の時に強姦され、相手が白人だったために(彼女が被害者なのに)逆に売春容疑で逮捕されるという理不尽な経験を強いられた過去を持つ彼女にとって、ジミーとの出会いは特別な意味を持つものだった。 「母はジミーとの結婚を“きっと後悔するに違いない”と私に忠告したわ。」 それは彼女が27歳の頃に経験した苦い思い出だった。 ある晩、ジミーがシャツに口紅をつけて帰宅した。 彼はビリーに気づかれたことを悟ると、言い訳の言葉を次々と並べ出したという。 「他の女と何をしてきたとしても、私に嘘をつく彼の態度がどうしても堪えられなかったの。彼の言い訳をさえぎって私はきっぱりと言い放ったわ。風呂にお入んなさい!Don’t explain!..

パティ・スミス少女時代①〜初めて歌った曲、初めて買ったレコード、そしてリトル・リチャードの衝撃

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