マーヴィン・ゲイとタミー・テレル〜モータウンの看板歌手が出会った理想のデュエットパートナー

「彼女の歌唱スタイルは僕の歌い方に完璧に合っていた。僕たちが成し遂げたことは“マーヴィン=タミー”というキャラクターを作り出したことだった。演劇や小説から飛び出てきたような二人の恋人たち。歌っている間、僕たちは恋をしていた。そのヴァイブ(雰囲気)は素晴らしいものだったよ。曲が終わると頬にキスをして、さよならを言うんだ。」(マーヴィン・ゲイ) マーヴィン・ゲイの代表曲といえば1971年に発表された「What’s Going On」だが、実はその数年前から彼は“デュエットの達人”とも言われ、モータウンの看板歌手として人気を博していた。 彼がデュオを組んだ女性は1964年のメリー・ウェルズ、次にキム・ウェストン、そして1967年からタミー・テレル、1973年のダイアナ・ロスという順番になる。 当時、タミーと出会った時のことをマーヴィンはこんな風に語っている。 「タミーは男に振り回されるような女じゃなかった。それが男を夢中にさせるんだ。彼女とは友達になれるとは思ったが、恋人にはなれないと思っていたよ。自立した女性は、僕に対してロマンティックな気持ちを持たないんだ。当時ジェームス・ブラウンとタミーは深い関係にあったが、僕との関係は完全に仕事面、クリエイティヴ面だけだった。」 十代でジェームス・ブラウンに見出された当時、彼女は“タミー・モンゴメリー”と名乗っていた。 ジェームス・ブラウンは彼女のデビュー盤「I Cried」をプロデュースし、自分のショーにもコーラスガールとして起用し売り出そうとしていた。 二十歳でモータウンと契約するが、この時にモンゴメリーという本名が覚えにくく長いこ..

ゴースト/ニューヨークの幻〜撮影直前に黙ってバッサリ髪を切った主演女優と「アンチェインド・メロディ」

ゴースト/ニューヨークの幻〜撮影直前に黙ってバッサリ髪を切った主演女優と「アンチェインド・メロディ」

1990年、日本はまだ好景気に浮かれていた。大人たちは株や不動産の動向に一喜一憂し、大企業や権力者たちは投資や買収という名のマネーゲームを強気に繰り返し、最新の追求と優越感に囚われた都市部の男と女たちが恋愛ゲームに明け暮れていた頃。 そんなある日、『ゴースト/ニューヨークの幻』(Ghost/1990)は公開された。この映画は本国アメリカだけでなく世界中で大ヒット。日本でもその年一番人気の劇場公開作品となり、デミ・ムーアのショートカットや物語中に出てくる陶芸にも話題が集まった。あまりにもヒットしたので、この路線を真似た映画やドラマが量産されたほどだ。 その理由は、真っ直ぐでピュアな愛を描いたこと。虚飾にまみれた時代とは真逆の世界観に、多くのまともな心が本来の自分たちが理想とする姿を捉えたのだろう。それに映画としても『ゴースト/ニューヨークの幻』は、非常に優れた作品だった。ロマンス、ファンタジー、コメディ、サスペンス、スリルの調和が絶妙だ。 主演したパトリック・スウェイジ(2009年に亡くなった)は、この役を仕留めるために相当の努力と想いがあったという。最初この役を打診されたのは有名なハリウッド・スターたち。しかし誰一人、“死人”の役はやりたがらない。パトリックは台本をありったけの感情移入で読み上げてスタッフたちを泣かせ、大逆転の末にキャスティングを決めた。 もう一人の主演デミ・ムーアは難なく決まったそうだが、クランクイン直前にパリに出向いて長い髪を自分の判断でバッサリ切ってしまい、監督を大いに悩ませた。だが撮影されたフィルムを観て、それが正解だったことが分かった。また、二人をつな..

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マイケル・ジャクソンの少年時代〜音楽好きな両親から受けた影響、ジャクソン5の結成と快進撃

「音楽業界で働くことは子供心にも楽しかった。僕にとっては呼吸するのと同じくらいに自然だった。親や家族に言われたわけじゃなく、僕自身の心の中の音楽に対する気持ちがそうさせたのです。」 1958年8月29日、彼はインディアナ州の最北部にあるゲイリーという街で誕生した。 9人兄弟の7番目の子供として生まれた彼には、マイケル・ジョセフ・ジャクソンという名前がつけられた。 「僕の一番古い記憶の一つは、工場で働いていた父の仕事についてです。それは心まで麻痺してしまうくらいにキツイ仕事だったらしく、父はそうした状況から逃れようとギターをプレイしていました。父は叔父さんと共にファルコンズという名前のR&Bバンドで演奏していました。チャック・ベリーやリトル・リチャード、そしてオーティス・レディングなどの曲を演奏するのが定番でした。それらの一曲一曲が僕ら兄弟に大きな影響を与えてくれたのです。」 一家の暮らしは貧しく、父親は製鉄工場でクレーン操縦士として働き、母親はデパートのパートタイム従業員をしながら家計を支えていた。 父親は元々音楽家を目指していたが…夢半ばにして挫折し、自分が叶えられなかった夢を息子らに託してグループを結成させた。 「母も音楽が大好きで、ピアノとクラリネットを演奏できる女性でした。彼女は当時の黒人には珍しくカントリー&ウエスタンを聴いて育った人で、歌声もとても美しかった。僕らの家にあったラジオからは、R&Bからカントリーまでいつも素晴らしい曲が流れていました。父のバンドは自宅で練習をしていたので、僕たちは日常的に演奏・楽器に触れながら育ちました。」 当時、兄ジャッキー..

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フットルース〜2011年にリメイクもされたMTV感覚満載の80年代大ヒット作

1981年に開局したMTVは1983〜1986年頃に全盛期を迎えていた。その影響でヴィジュアル性に富んだカルチャー・クラブやデュラン・デュランといったイギリスのNew Waveグループ、ヴァン・ヘイレンを筆頭とする長髪メイクのHeavy Metal勢がヒットチャートの常連に。 そしてマイケル・ジャクソン、プリンス、マドンナ、シンディ・ローパーなど時代の顔となるアーティストたちの登場。巨額の費用を掛けたストーリー性あるビデオ製作も当たり前になり、1984年からはMTVアワードの開催がスタート。 中でもMTV人気の一番の恩恵を受けたのは、ティーンエイジャー向けに作られたダンスシーン満載の青春映画だったかもしれない。1983年の『フラッシュダンス』はその先駆けとなって大ヒット。当然サウンドトラックも売れまくり、80年代のサントラブームもここから始まった。 『フットルース』(FOOTLOOSE/1984)はまさにそんな時代を象徴する1本。ハーバート・ロス監督は「MTVの感覚を念頭に置いて作った」と言うし、サウンドトラックはすべての撮影を終えてから、各場面のイメージに合わせてアーティストたちが曲作りをしたそうだ。ドラマの展開や人物との動きに音楽が見事に一致していたのはそういうわけだ。 出演はケヴィン・ベーコン、クリストファー・ペン(兄はショーン)、サラ・ジェシカ・パーカー(映画観ていて大発見!)ほか。脚本家ディーン・ピッチフォードがオクラホマの田舎町で現実にあった新聞記事をヒントにシナリオを書いた。 ユタ州の田舎町バーモント。この保守的な場所では教会や牧師が絶大な力を持っている。都会のシ..

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多忙とスランプと病の中で夢を叶えたフジファブリック志村正彦の27歳

2007年7月10日、27歳を迎えた志村正彦はこれまでにないスランプの中にいた。 2004年にメジャーデビューしたフジファブリックだが、新曲のリリースが全くなかった2006年には「曲ができないミュージシャンほど、世の中に必要ないものはない」と、かなり自分を追い込んでいた。 また、自分の曲が書けないのに対して、同じバンドメンバーが曲をたくさん書いてくるようになったことで自尊心も傷つけられた。 さらに落ち込んだ志村は、良いライブをすることによってなんとか均衡を保っていた、とその頃の日記による“振り返りインタビュー”で語っている。 2007年に入ってからは、再び順調にシングルがリリースされてアルバムのレコーディングも進み、フジファブリックの人気はますます上昇した。 ROCK IN JAPANやRISING SUNなど数々の夏フェスにも出演し、志村にとって念願だったフジロック・フェスティバルへの出演も果たしている。 しかし、夏フェスなどのライブイベントをこなしながら、アルバムのレコーディングも進めるという多忙さが、志村の身体を蝕んでいった。 難聴のような症状が出たり、左右の目の見え方が違って見えたり、移動の飛行機の中で気分が悪くなって倒れたりすることもあった。 また、この頃から電車に乗ることができなくなる病気を発症している。病名は明かされてはいないが、過労とスランプによるストレスからくる心の病ではなかっただろうか。 そのようなスランプの中でも名曲は生まれた。2007年11月にリリースされた「若者のすべて」は、近年でもCMに使用されるなど、今も幅広く支持を集めるナンバーだ。この曲を作るこ..

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ラプソディ・イン・ブルー〜短い生涯で大量の名曲を書き上げたジョージ・ガーシュイン

1920〜30年代にポピュラー音楽とクラシック音楽の両面で活躍し、「アメリカ音楽を作り上げた作曲家」として知られるジョージ・ガーシュイン。「やりたいことが多すぎる」「失敗してる暇はない」「音楽が僕の生きてる証」と本人が言ったように、38年というその短い生涯で大量の名曲を書き上げた。 20世紀を代表する名曲「ラプソディ・イン・ブルー」「パリのアメリカ人」、オペラ「ポーギーとベス」をはじめ、スタンダードナンバー「バット・ノット・フォー・ミー」「エンブレイサブル・ユー」「ザ・マン・アイ・ラヴ」「ス・ワンダフル」といった元はブロードウェイ・ミュージカルのために作った歌まで、誰もが一度は耳にしたことがあるはずだ。 1898年9月26日、ロシア系ユダヤ人移民の次男としてニューヨークのブルックリンで生まれたジョージ・ガーシュインは、他の神童と違って10歳になるまで音楽に対する興味を表に出さなかった。 ある日のこと。ロウワー・イースト・サイドにあるガーシュイン家のアパートメントに、中古のピアノが運び込まれた。それは長男のアイラにレッスンを受けさせるために母親が注文したものだった。勉強好きなアイラとは対照的に、弟のジョージは外で遊んでばかりいる悪ガキだった。 しかし、ピアノを見たジョージは、手慣れた調子で椅子をクルクル回して高さを調整すると、座って鍵盤の蓋を開け、おもむろに当時の流行歌を見事に弾き始めた。心地よく響くリズミカルな演奏にすっかり感動してしまった母親が不思議に思って尋ねると、近所の友達の家に自動ピアノがあって、ジョージはそれでよく遊んでいたのだという。実は6歳の時から興味を持っていた..

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昭和を駆け抜けた大スターの歌の原点にあったチェット・ベイカーへのリスペクト~「石原裕次郎 昭和太陽伝」

映画界にデビューして大スターになる前から、石原裕次郎は“クールジャズの象徴”と言われたトランペット奏者、チェット・ベイカーを愛聴していた。 日本では発売されていなかったレコードも、アメリカから輸入盤をとりよせて、ほとんどすべてを持っていたという。 そしてとくに歌手として多大な影響を受けたのが、『チェット・ベイカー・シングス』というレコードだったと述べていた。 2019年7月17日は石原裕次郎の三十三回忌にあたるが、それに合わせて出版される評伝「石原裕次郎 昭和太陽伝」には、チェット・ベイカーのレコードにまつわるエピソードが紹介されている。 著者の佐藤利明は石原裕次郎邸を訪ねた際に、まき子夫人に二階の「プレイルーム」に案内してもらった。 キャビネットには、裕次郎が愛聴した様々なLPレコードがあった。なかでも目を引いたのがチェット・ ベイカーのアルバム。一九五〇年代から断続的ではあるが一九八〇年代にかけて、ヴォーカリストとしても活躍したウエスト・コースト・ジャズのトランペッター。囁くような歌 声は「ウィスパー・ヴォイス」として、今でも人気がある。 チェット・ベイカーの代表作「チェット・ベイカー・シングス」(一九五四年)を裕次郎のキャビネットで見つけたとき、裕次郎の歌声の秘密を理解できたような気がした。 高校から大学にかけての頃、石原裕次郎は米軍極東放送のFEN(ファーイーストネットワーク)で、いつもジャズを聴きながら試験勉強をしていた。 その時に流れてきたのチェット・ベイカーだった。 トランペットとを吹くのと同じフィーリングで、しかも男か女かが判別しにくい歌声で、囁くように唄っ..

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「マインドフルネス」が必要とされる時代に聴くB’sの「ultra soul」

 仏教ブームが続いている。  僧侶を集めた爆笑問題の仏教バラエティ番組は終わってしまったが、今は「マインドフルネス」という名の黒船の来襲もあり、その裾根は広がるばかりだ。 「マインドフルネス」とは、ベトナム出身の禅僧ティク・ナット・ハンが広めた言葉である。ブッダが説いたとされる八正道のひとつ、「正見」の英語訳である。キング牧師にも影響を与え、アメリカの連邦議会で瞑想を指導した経験をもつ彼は、IT業界でも人気が高く、グーグル本社も2011年に彼を招聘しているし、iPhoneのヘルスのメニューの中には「マインドフルネス」という項目が入っている。  そんな背景もあるのだろう。  B’zの「ultra soul」が、仏教をテーマにしているのでないか、という声が聞かれ始めた。2001年に発表され、世界水泳のテーマソングともなった彼らの代表曲のひとつである。 ♪ 祝福が欲しいのなら 悲しみを知り 独りで泣きましょう そして輝くウルトラソウル ♪  悲しみを知ること。それは現実を現実として見据える態度、つまり正見=マインドフルネスだ。  そしてその悲しみから逃げることなく、ひとり泣くこと。それはブッダが説いた六波羅蜜のひとつ、忍辱波羅蜜に他ならない、というわけだ。  忍辱とは、現実を甘受し、耐え忍ぶこと。  そうすることで初めて、人の中に本来宿っている仏性が光り輝くというわけである。 「ウルトラソウル」は、直訳すれば、超魂ということになる。  今ある悲しみを直視できない時、人はその原因を外に求める。つまり、他のせいにする。そんなことでは、いつまでたっても幸せになれないし、祝福はされない..

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無名の少年たちだったジャニーズを特訓してレギュラーに抜擢した伝説のディレクター末盛憲彦

ジャニーズがショービジネスの世界にデビューしたのは、NHK総合でオンエアされていたテレビ番組『夢であいましょう』への出演がきっかけだった。 日本のテレビ史に語り継がれる先駆的なこの音楽バラエティは、1961年4月8日から5年間にわたって毎週土曜日の夜に放送されていた。 <参照コラム>黒柳徹子がその独特な持ち味を発揮し始めた伝説の番組『夢であいましょう』 1958年から始まった日本テレビの『光子の窓』のほうが、音楽のバラエティ番組としては先輩だったが、この番組はアメリカの『ペリー・コモ・ショー』がお手本にしていた。 しかしNHKのディレクターだった末盛憲彦を中心とする若いスタッフたちは、アメリカの人気番組をコピーするのではなく、江戸っ子の粋でいなせな文化を受け継ぎながら、そこに都会的なジャズやポピュラー音楽、あるいは最新のダンスを組み合わせることを目ざした。 したがって毎回のテーマごとに短いコントをつないで、それをはさむようにしてレギュラー出演者の歌や踊りが、順に披露されるという内容になった。 目で楽しめる音楽を目指して曲ごとにセットを変えたのは、アイデアマンだった末盛の発案であった。 構成作家に永六輔、音楽監督に中村八大を迎えたのも、末盛の慧眼だったといえる。 永六輔が「何かの真似はしたくなかった」というように、オリジナルな点にこだわった『夢であいましょう』は、「今月の歌」のコーナーを設けて書き下ろしの新曲を発表していくことにした。 そして永六輔の作詞、中村八大の作・編曲による「上を向いて歩こう」(歌:坂本九)、「遠くへ行きたい」(ジェリー藤尾)、「こんにちは赤ちゃん」(梓み..

マーヴィン・ゲイとタミー・テレル〜モータウンの看板歌手が出会った理想のデュエットパートナー

追悼・ジャニー喜多川~初代のジャニーズに託したエンターテインメントにかける夢

1962に年に設立された「ジャニーズ事務所」は、 代々木にあった米軍キャンプで個人的に指導していた少年野球チーム「ジャニーズ」のなかから、タレント志望の少年たちを集めて歌って踊れるグループを誕生させようとしたのが始まりだ。 朝鮮戦争に徴兵されて従軍した日系アメリカ人のジャニー喜多川は、ロサンゼルスに生まれ育ったが、除隊後も日本に残って駐日アメリカ大使館で働いていた。 彼は朝鮮で戦災孤児に英語を教える仕事をした経験から、当時最も人気のあったスポーツの野球を通じて、日本の少年たちにも夢を持ってもらおうと考えた。 そこで米軍キャンプのワシントン・ハイツ(現在の代々木公園の一画)で少年たちにグローブやバットなどを提供し、一緒に野球を楽しむようになったのだった。 たまたま雨が降って野球ができなかった日、ジャニー喜多川はいつも自宅に遊びに来ていた少年たちの何人かを連れて、評判になっていたアメリカ映画を観に行った。 そして『ウエスト・サイド物語』にすっかり感動して、その後もなんどか少年たちと映画館に通ったという。 そんなある日の帰り道、4人の少年から「自分たちも映画のようなミュージカルをやってみたい」と気持ちを打ち明けられた。 それならばと4人をジャニーズと名付けて、ダンスと歌のレッスンの日々が始まった。 ジャニー喜多川はロサンゼルスに住んでハイスクールに通っていた頃に、劇場でアルバイトをしたことがあったので、本場のショービジネスの世界を体験していた。 そうした日々の中で、基本のステップに忠実に踊って歌っていたベテランたちのパフォーマンスに感銘を受けたことがあった。 いつも元気良く溌剌とし..

マーヴィン・ゲイとタミー・テレル〜モータウンの看板歌手が出会った理想のデュエットパートナー

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