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英国からアメリカ西海岸ヨット・ロックの風~BLUEPRINT BLUE『TOURIST』

ここ最近、浸透しつつある“ヨット・ロック”というジャンル。
それは、2000年代にアメリカでインターネット配信されたコメディ・シリーズ「Yacht Rock」に由来する。内容は1970年代の西海岸を舞台に、当時の音楽業界をパロディにしたものだ。
“ヨット・ロック”とはつまり、日本では“AOR”(アダルト・オリエンテッド・ロック)と呼ばれた、1970年代中頃から80年代のウエストコースト・サウンドや、ジャジーで洗練された大人向けのソフト・ロックのことだ。例えば代表的なアーティストではクリストファー・クロス、マイケル・マクドナルド、ネッド・ドヒニー、スティーリー・ダンなどなど。
本来は「ヨットを所有しているような金持ちのエリートが聴く音楽」という揶揄的な意味が含まれていた。
だが、番組の人気が広まったことから、リアルタイムでAORを体験していない若いDJや音楽ファンの耳に届くことになる。
そして「こんなにも素晴らしい音楽があったのか!」と再発見され、 アメリカの若い音楽ファンの間で“ヨット・ロック”の人気が高まっているというわけだ。
最近は日本でもヨット・ロックに関する書籍や、コンピレーション・アルバムなども企画されたりしていて、バブル期のAORブームが“ヨット・ロック”と名前を変えて、リバイバルする気配も感じられる。
そんなヨット・ロックのブームが海を越えて英国に渡り、誕生したバンドがBlueprint Blue(ブループリント・ブルー)、サウス・ロンドン出身の4人組だ。
バンド名は、スティーリー・ダンの名曲「Peg」の歌詞に由来する。
結成する前はそれぞれ別のバンドで、サイケデ..

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ポール・サイモンの秀作「ぼくとフリオと校庭で」が日本で発売された日

1972年(昭和47年)5月21日、ポール・サイモンのソロ名義2ndシングル「ぼくとフリオと校庭で」(CBS・ソニー)が日本で発売された。
同年の国内ヒットソングといえば…
1位「女のみち」/宮史郎とぴんからトリオ
2位「瀬戸の花嫁」/小柳ルミ子
3位「さよならをするために」/ビリーバンバン
札幌冬季オリンピック、ミュンヘンオリンピックが開催され、自動車に初心者マーク登場、東北自動車道が開通、そして連合赤軍によるあさま山荘事件がおこった年でもある。
同曲のレコーディングでは、ジョン・レノンやポール・マッカートニーなどの作品への参加で知られるデヴィッド・スピノ(ギター)や、マイルス・デイヴィスのアルバムへの参加でその名を知らしめたブラジル出身のパーカッショニスト、アイアート・モレイラ等がバックを務めている。
アメリカのポップスでは聴き慣れないパーカッションの音は、“クイーカ”というブラジルの打楽器によるもの。
リリース以降は、コンサートでは必ず演奏されており、ポール自身も気に入っている楽曲として多くのファンに愛され続けている。
本人の思い入れもあってか、この曲のミュージックビデオはリリースから16年も経った1988年に撮影・制作されている。
歌詞の内容が謎めいていて、発表当時からファンの間であれこれ真相が推測されている“迷曲”でもある。
ママはパジャマのままベッドから飛び出した
そして警察署に駆けつけたんだ
気づくとパパは怒鳴りだしちゃって
それで捜査みたいなことをやりはじめた
それは法律に反すること
それは法律に反することだった
ママが目にしたこと
それは法律に反することだ..

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沢田研二の「巴里にひとり」が発売された日

1975年(昭和50年)5月5日、沢田研二の13thシングル「巴里にひとり」(ポリドール)が発売された。
同年の国内ヒットソングといえば…
1位「昭和枯れすゝき」/さくらと一郎
2位「シクラメンのかほり」/布施明
3位「想い出まくら」/小坂恭子
4位「時の過ぎゆくままに」/沢田研二
5位「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」/ダウン・タウン・ブギウギ・バンド
山陽新幹線博多まで開通、第二次ベビーブーム、天皇が史上初めてアメリカ合衆国を公式訪問、双子デュオ歌手ザ・ピーナッツが引退、ローソン設立、マルちゃんのきつねうどん(東洋水産)、ペヤングソース焼そば(ペヤング)、「オヨヨ」(桂三枝)、「死刑!」(漫画ガキデカ)が流行した年でもある。
ジュリーはこの曲での海外進出を「日本での宣伝のための活動だった」と述懐している。
つまり“箔付け”のためであって「本気で世界進出を目指したわけではなかった」と言い切っているのだ。
さかのぼること2年…1973年、当時25歳だった彼は6thシングル「危険なふたり」で日本歌謡大賞の大賞を受賞し、タイガースの“ジュリー”からソロ歌手・沢田研二へと転身しつつ“次へのステップ”を強く意識しはじめていた。
翌1974年の1月にはフランスへ渡り、MIDEM(毎年1月カンヌで開催される世界最大規模の国際音楽産業見本市)に参加するのを皮切りに、9月には再びヨーロッパを訪れ、ロンドンのポリドールで12曲、フランスのポリドールにて3曲レコーディングを行う。
そして1975年1月、イギリスにてシングル「The Fugitive(愛の逃亡者)」と同タイトルのアルバムを、..

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コールマン・ホーキンスを偲んで〜失敗を怖れずに果敢に腕を磨き続けたジャズメンの偉大な功績と足跡

1969年5月19日、“ジャズ・サックスの父”と呼ばれた男コールマン・ホーキンスが肺炎を悪化させこの世を去った。享年64。
スウィングジャズ世代のミュージシャンとしては珍しく、第二次世界大戦後はビ・バップの分野で活躍し、サックス奏者に限らず多くの後進ミュージシャンに影響を与えた。
“Hawk”や“Bean”という愛称で親しまれた彼は、どんな音楽人生を歩んだのだろう?
今日は彼を偲んで、その偉大な足跡と功績をご紹介します。
1904年11月21日、ミズーリ州のセントジョゼフで産声を上げた彼は、音楽家の母と電気工事作業員の父のもとで大事に育てられたという。
一人息子だった彼は、母親の影響もあって5歳からチェロとピアノをみっちり稽古し、9歳の時にプレゼントにもらったサックスとの出会いをきっかにジャズに興味を持つようになる。
十代の前半にもかかわらず、劇場のオーケストラやヴォードヴィル楽団に駆り出され、周囲の大人達を驚かせていたという。
息子を音楽学校に通わせて、立派なチェリストにしたいと思っていた母親は黒人でも一流の教育が受けられるシカゴへ息子を送り出す。
その後、カンザス州都トペカのハイスクールに進学した彼は、日に日にジャズの魅力に取り憑かれてゆく。
トペカから車で1時間ほど飛ばすと、そこはジャズのメッカと言われたカンザスシティだった。
そこで彼は、ルイ・アームストロングやキング・オリヴァー等がニューオーリンズから持ち込んだエッセンスを吸収し、将来ジャズメンとして生きる夢を抱くようになる。
十代の後半になると「サックス奏者としてもっと腕を磨きたい!」と決意し、ジャズの道に進むことに..

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ボブ・ディランの少年時代〜耳を傾けた列車の音、ラジオで聴いた音楽、ひたすら読み漁った本

1941年5月24日、彼はミネソタ州の北東部に位置する街ダルースで生まれる。
出生名はロバート・アレン・ジマーマン。
祖父母はロシアのオデッサ(現ウクライナ)やリトアニアからの移民であり、父エイブラハム・ジマーマンと母ビアトリス・ストーンはアシュケナジム(東欧系)ユダヤ人だった。
彼が6歳になる頃、弟のデイヴィッドを含む一家はメサビ鉄山の鉱山町ヒビングに引っ越しをする。

「ヨーロッパでは第二次世界大戦が激化しており、アメリカも参戦しだした時代に私は生まれた。世界は分裂し、新しく生まれたきた者すべて顔に混沌が拳をくらわせた。」

1951年、10歳になった彼は学校に入学した。
当時学校では、ロシアの爆弾が落ちてくることを想定して、空襲警報が鳴ったら机の下に隠れる訓練が行われていたという。

「その脅威は恐ろしかった、アメリカがロシア人をそこまで怒らせる何をしたのか?私たちにはわからなかった。血に飢えたアカ(共産主義者)がそこいらじゅうにいると、私たちは教えられた。」

彼は子供の頃によく通過する列車を眺めながら、その音を聞いていたという。
大きな有蓋貨車、鉄鉱石運搬車、貨物車、客車、寝台車。
彼が育った町では、どこへ行くにも踏切で止まって長い列車が通り過ぎるのを待たなくてはならなかった。
線路は田舎道と交差していたり、道路に沿って続いていた。

「遠い列車の音を聞いていると、心が落ち着いた。」

♪Lonesome Whistle(淋しき汽笛)

音楽に興味を持ち始めた彼にとって初めてのアイドルとなったのは、カントリーミュージックの大御所ハンク・ウィリアムズだった。
彼は家にあ..

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ジョン・レノンとポール・マッカートニー〜運命的な出会い、最強作曲コンビの誕生

「僕はクオリーメンというバンドを持っていた。僕がボーカルでリーダーだった。ポールに会ったとき、彼をバンドに入れるか入れないか?迷ったんだ。ポールを入れて強力なバンドにする方がいいのか?僕一人で引っ張っていく方がいいのか?結論は“ポールを入れる”だった。僕一人でやっていくより、彼と組んで最強のバンドを目指そう!力を合わせよう!と思ったんだ。」(ジョン・レノン)

ジョン・レノンの父親アルフレッド(当時26歳)は船で臨時に雇われていたウェイターだった。
アルフレッドがジョンの側にいたのは2年間だけで、彼は母子を置いて姿をくらましてしまった。
母親ジュリア(当時24歳)は別の男性を見つけ、ジョンは彼女の姉ミミに預けられて育った。
ジョンがティーンエイジャーになった頃、イギリスではロニー・ドネガンの「Rock Island Line」が大ヒットし、スキッフル・ブームが起っていた。
1956年、16歳となったジョンは、エルヴィス・プレスリーの「Heartbreak Hotel」を聴き、ロックンロールの洗礼を受ける。
この頃、ジュリアが近くに住んでいることを知ったジョンは、ジュリアの家へ行き来するようになる。
夫・フレッドからバンジョーのコードを教わっていたジュリアは、ジョンにバンジョーのコードをいくつか教え音楽に関心を向けさせた。
ミミは賛成しなかったが、ジュリアはジョンのロックンロール好きに理解を示し、彼がハイスクール時代に初めて組んだバンド、クオリーメンを応援していた。
バンドメンバーは、学校の放課後にジュリアの家に集まって練習をしていたという。
一生懸命練習を重ねながら、クオリーメ..

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ウォーカー〜ジョー・ストラマーが音楽を担当したアレックス・コックス監督作

『レポマン』(1984) 『シド・アンド・ナンシー』(1986) 『ストレート・トゥ・ヘル』(1987)と、立て続けに熱い作品を放っていたアレックス・コックス監督が手掛けた4作目『ウォーカー』(Walker/1987)。
まるで世界の中心にいて、それが全てであるかのようなアメリカ合衆国の価値観や世界観に反抗心を抱いていたイギリス出身のコックスは、自身の作品にアメリカ批判を反映することでも知られているが、「のけ者にされたアウトローを描くこと」も彼特有のもう一つの重大なテーマ。『ウォーカー』はその両面が痛烈に描かれた映画となった。
コックスが目をつけたのは、19世紀半ばのニカラグアで冒険家から独裁者に変貌したウィリアム・ウォーカー。アメリカ史ではページから完全に抹殺された男だったが、ニカラグアでは「悪のアメリカの象徴」として忘れられることはなかった。
法律・医学・ジャーナリズムを身につけていたウォーカーは、その行動力と実績から財界の大物ヴァンダービルトに気に入られ、植民地化政策のもと小国ニカラグアを攻めて支配するように依頼される。美しい婚約者のいるウォーカーは、権力を持つことよりもっと高尚な目的を人生に見出しており、この話をきっぱりと断った。
しかし、愛する人が病で息を引き取った時、絶望したウォーカーは過去と決別してこの任務へと向かう。アメリカは「我々は神の啓示により、隣接国の経済・政治の文明化に努める権利を持っている」というマニフェスト・デスティニーに傾いた時代。領土拡張という侵略は大義名分になった。
1855年。58人の不死隊を率いてニカラグアに渡ったウォーカーは、32歳にして..

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都会のアリス〜チャック・ベリーも出演したヴィム・ヴェンダース伝説のロードムービー

ヴィム・ヴェンダース監督の記念すべきロードムービー第1作として知られる『都会のアリス』(Alice in den Städten/1974)。“ロードムービー”というたまらない響きは、ここから始まったと言ってもいい。のちに自身のプロダクションを「ROAD MOVIES」と名付けたことからも分かるように、このジャンルはヴェンダース映画の代名詞となった。
前作『緋文字』について、ヴェンダースは「完全な失敗作」と吐き捨てている。性に合わない歴史映画に手を出したことは、ニュー・ジャーマン・シネマの旗手であるヴェンダースから自信を奪ってしまった。

映画は必ずしも自分に合った仕事ではない。今やっていることは、恐らく間違ったジャンルの映画作りだと思ったりもした。やることなすことうまくいかなかった。

だが、唯一の収穫もあった。青年リュディガー・フォーグラーと少女イェラ・ロットレンダーの二人が出演するシーンに何か閃くものを感じたのだ。そして「車やガソリンスタンド、テレビや電話ボックスの登場しない映画はもう作らない」と決意。「よし、この二人が出る映画を作ろう」

一つの考えから始まる映画はもう作るな。今度こそは人物から出発して自分自身の必然で作れ。と言い聞かせた。この映画が自分の仕事の、自分の職業の、自分の映画の始まりだという思いだけで、何かを成し遂げたいと思った。

映画作りはいくつかの要素がベースとなった。例えば、ポラロイドとアメリカ。ヴェンダースは以前、アメリカ旅行をしながら無数のポラロイド写真を撮影したことがあった。それは1分待ってから引き剥がせば写真が出来上がるというものだったが、映..

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友部正人が遠藤ミチロウと会った日に、眼の前でうたわれた「カノン」を聴いて感じたのは歌の中にある”凶器”だった

撮影・三浦麻旅子

愛知県豊橋市の「ハウス・オブ・クレージー」で2011年9月4日(日)、友部正人と遠藤ミチロウのライブが行われた。
友部がその日のことを、公開している日記にこう記していた。
1年9か月ぶりの豊橋、今回は遠藤ミチロウとのジョイントでした。
最初にミチロウが歌いました。客席でぼくも聞いていたのですが、ミチロウを信頼しきったような一人の青年の表情が印象的でした。
ミチロウの後ぼくが1時間歌って、アンコールでは二人で「一本道」と「カノン」を歌いました。久しぶりのミチロウとのライブ、だけどいつから久しぶりなのかぼくは覚えていなくて、ミチロウから「だいじょうぶ?」と言われましたが、実は3年ぶりでした。
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二人の出会いは1970年代の前半、ミチロウが山形大学の学生だった頃にまでさかのぼる。
ミチロウは一部の学生たちの間で、よく知られる存在であったようだ。
当時は60年代のアングラやカウンターカルチャーの影響で、各地でハプニングと呼ばれる行為が流行っていた。
突然に起こす非日常的な行動によって、日常の中に眠っている意識を目覚めさせようとする試みである。
ミチロウも大学のなかで体に包帯を巻きつけて走るような、ハプニングをしたことがあったという。
それが後のスターリンの過激なライブにまで、そのままつながっているのかもしれない。
山形県東村山郡出身のシンガー・ソングライターで俳優の峯田和伸(銀杏ボーイズ)が、2016年に行われた対談のなかで若い頃に父親から聞かされた話として、ミチロウにまつわるエピソードについて語り合っていた。
峯田:うちの親父が、“山形大学に遠藤っていうすご..

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1960年代“R&B”ヒットチャート/アーティスト総括(シングル編)

「TAP the CHART」第160回は、1960年代のR&Bシングルチャートを総括。
【1960s TOP 20 R&B SINGLES】
*ランキングはBillboardチャートのデータをもとに作成。( )内はリリース年。
❶Tossin’ and Turnin’ / Bobby Lewis(1961)

❷Baby (You’ve Got What It Takes) / Brook Benton and Dinah Washington(1960)

❸I Can’t Stop Loving You / Ray Charles(1962)

❹I Can’t Help Myself (Sugar Pie Honey Bunch) / The Four Tops(1965)

❺Kiddo / Brook Benton(1960)

❻Shop Around / The Miracles(1960)

❼Ain’t Too Proud to Beg / The Temptations(1966)

❽Papa’s Got a Brand New Bag (Part 1) / James Brown(1965)

❾Respect / Aretha Franklin(1967)

❿Please Mr. Postman / The Marvelettes(1961)

⓫He Will Break Your Heart / Jerry Butler(1960)
⓬My Guy / Marry Wells(1964)
⓭Soul Man / Sam & Dave(1967)..

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